今回は「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」この言葉を考えて見たい。
この言葉は、ビスマルクの言葉と言われているが、実は定かではない。
一説によると、ビスマルクは「政治家の仕事は歴史から学びそれを今の政治に生かすことだ」と言っただけらしい。
私の信条は「一事を経ざれば一智に長ぜず」である。
「何事も、一つの経験をして、初めて一つの知恵が身に付く」と言う意味で、この言葉と相反する。
心の問題を研究して言いると、「一事を経ざれば一智に長ぜず」この言葉が身に染みる。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉は、恐らく後世の「愚者」の作った言葉だろうと思う。
まず、ビスマルクの言葉と言う所にポイントがある。
実際にビスマルクが言った言葉と言われているだけで、出所が不透明な言葉である。
問題は「ビスマルク」が言った言葉とされると、名言として使われてしまう所で、それを鵜呑み信じてしまう所だ。
賢者ならその言葉に疑問を持つだろうし、愚者ならその言葉を「名言」と思って安易に使ってしまうだろう。
なぜならば、疑問を持つと言う事は「思考」しているが、安易に使う事は共感しているだけで「思考」はしていない。
そもそも、賢者と愚者と言う言い回しが愚かしい。
自らの体験や経験で得られた知識は経験知と呼ばれる。(普段は馴染みのある「値」を使っている)
その経験知の積み重ねによって、物事の判断や予測する事を「経験則」と言う。
経験則が形成される為には膨大な成功と失敗の経験が必要とされる。
これは、統計学的に見ても正しい。
サンプリング調査をした時に、サンプリングの数を増やせば誤差が少なくなる。
昔、スキーツアーを組んでいた時に良く使っていた。
例えばパンフレットを1万枚作り、街頭配布を始める。
一日の配布量に対しての申込者数で、その日の「集客率」を割り出す。
その一週間の平均値×パンフレットの総数で計算すると、総集客数の予測が出来る。
11月にパンフを撒き出し、シーズン終了が3月末の長丁場だが、最初の一週間ですでに結果は見えていた。
1ヵ月の平均値で計算すると、最終集客実数と予測集客数は、ほとんど誤差が無かった。
つまり、人間も、より多くの失敗と成功の経験を積んだ経験則で判断した事は間違え難いと言う事だろう。
大工の修行時代、親方は「見て覚えろ」と言うだけで、手取り足取り教えてくれなかった。
「手本はこれだ」と親方がやった所を見せられて、真似してやって、失敗して何度も怒られた。
その親方の教え方は、「失敗させる事」で、失敗したら「何が悪かったのかを考えろ」と教えられた。
それを繰返すと、何気ない一つの細工も深い意味がある事を知る。
学校教育的には、その意味を教えながら学んで行く。
すると、失敗の経験が無いから、意味を軽んじる傾向が出て、「これくらいは」と言って手抜きをして、取り返しの付かない大きな失敗をする。
つまり、小さな失敗を身を持って経験する事で大きな失敗を防ぎ、小さな失敗を繰り返して覚えていれば「リカバリ」技術も同時に習得している為、例え大きな失敗をしても修正も出来る。
しかし、小さな失敗の積み重ねが無いと、リカバリ技術も無く途方に暮れてしまう。
そして、教え直そうとすると「そんな事は知っている」と言い、覚え直そうとはしない。
これが「知っている気になっている」と言う事である。
そして、「新しい技術」を学んだ時、それまでの経験則が重要になってくる。
失敗を繰り返しす事で教えられた者は、その経験則から一つ一つの行程の意味を理解するが、学校教育的に教えられた者は、その行程だけを理解する。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉も同じ事のように思う。
自分の中に類似する経験知や経験則が無ければ、真に理解する事は出来ない。
自分の中に類似する経験知があって、初めて理解する事が出来る。
一つ、私が実感している「経験知」を書こうと思う。
それは「蛙の解剖」
私の子供の頃は、小学校では「フナの解剖」、中学では「蛙の解剖」の授業が行なわれていた。
今でもフナの腹を切るときの感触や、蛙の手足に針を刺したときの感触が、手に残っている。
不思議なのだが、小学校の頃は蛙に爆竹をつけて破裂させたり、高く放り投げ、地面に叩き付けたりして遊んだ物だが、その時にはさほど罪悪感などは無く、面白がってやっていた。
しかし、解剖の授業をしてからは、生き物で遊ぶ事をしなくなった。
その時の自分の気持を分析すると「触感」の違いがある。
爆竹や、放り投げは触っているだけで、自分の手で生体を破壊する事はしていない。
しかし、解剖の時は、自分の手で生体を刻み、その感触に鳥肌が立った。
そして腹を切り裂き、内蔵を自分の目で見て、心臓が動いているのを実際に見て、生きていると言う事を視覚として理解した。
そして、しばらくの間動いていた心臓も、授業が終わる事には止まり、生物学的な「死」を目の当たりにした。
そんな実感や、感触、心の動き等は教科書では学べない。
それからだろうか、「包丁で刺された」と言うニュースを見て、刺した時の事を考えると、手に解剖の時の感覚が甦り、あんな感触を、しかも同じ人間でなど絶対に味わいたくないと思っていた。
恐らく人間にとって、本当に理解すると言う事は、双方の経験をする事が必要なのだろう。
しかし、今では解剖の授業はほとんど行なわれていない。
昔の子供と今の子供の遊びの違い。
昔の子供は、結構残酷な遊びをしていたが、今の子供はゲームなどの疑似体験。
そこには生態に針を刺した、あのゴリっとした嫌な感触や、心臓が止まるのを見て死んだと言う実感は無い。
こうした事を体験して来ると、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉が薄っぺらに思えてくる。
私は「多くの経験を積んだ者が、歴史に学ぶ事が出来る」と思う。
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