最近、電気的な紙芝居の中で出てくる林の中の安い葉っぱの人って、恐らく躁鬱病若しくはそれに類する病気だろう。
今まで見て来た躁鬱病の相談者と全く同じパターンだ。
特に言動パターンが酷似している。
面白い人と枝分かれした時の異常なハイテンションは躁状態の特徴だ。
声を奏でている時に倒れた事も、自律神経系の症状だろう。
体調不良もあるだろう。
あの目の動きも見られるし・・・
早めに医者に行ったほうが良いと思うのだが・・・・
ここで、安い葉っぱの人の話を持ち出したのは、これが縮図だからだ。
誰も、安い葉っぱの人が病気かもしれないと言う事を言わない。
その事は人権の尊重を余儀なくされ、「正常な人」として扱われる事になる。
そんな中で、安い葉っぱの人は様々な様々な言動を繰り返す。
その言動が関係者に対する周囲の人の心象に影響を与える。
事情を知ず、その言動を真に受け関係者に対して不信感を抱き始めバッシングを始める。
ここで、関係者が反論すれば言動はエスカレートして行き、周囲の人は困惑する。
言動がエスカレートするに従い、体調不良が激しくなってくる。
反論せずに沈黙を守っていても結果は同じになるが、全体の騒動は小さくなる。
そして通院若しくは入院となり、しばらく活動は出来なくなるだろう。
しかし、そこまでの間に撒き散らした言動は関係者の心に深刻なダメージを与え、鬱を発症しやすくなる。
この構図は他人事ではない。
同じ構図が多くの会社や学校の中で起こっている。
相手を病者と認識していれば、相手の行なう「理不尽」さを許容する事も出来るが、相手を病者と認識出来なければ相手の理不尽を許容する事は出来なくなる。
相手の「理不尽」を許容出来ずにいると、自分も鬱か躁鬱になり易くなる。
ここで鬱になりやすい人と、なり難い人の違いが出てくる。
それが自尊心の中身だ。
自尊心の中身がある人は敵対するか相手にしないが、自尊心の中身が無い人は引き篭もるか傘下に入る。
傘下に入った人は、集団で気に入らない人に対して攻撃を始める。
そんな事を繰り返して、異常者集団が形成されて行くのだが、最初から病者としての認識が無ければ誰もその集団を異常者集団とは思わない。
自己愛性人格障害は自己愛が満たされていれば異常性を発揮しないのと同じで、異常者同士が集団を作る事によって、その集団の中にいれば自己愛が満たされる為、集団からはみ出る事に一種の恐怖感を覚えるようになる。
問題は、最初に病者を病者と認識出来ない所である。
オウムの麻原を周囲の人が病者と見抜いていれば、オウム真理教などと言う存在自体無かっただろう。
いや、病者を認識する以前に病者を作らない事の方が重要だろう。
ちなみに、大きな坂の橋の下にいる人も、今の状態が続けばやばいかもしれない。
杞憂で終わればいいのだが、ハイテンションが長期間続けば焼き切れる。
体調不良が出始めたら赤信号だ。
病気を発症する要素は、真面目で責任感が強い性格。
安倍川餅の様にならなければ良いのだが・・・