また、母親が小学六年の子供を殺してしまった事件が起きた。


報道によると「子供の不登校」を動機に挙げているが、その子が不登校だった訳ではない。

なのに、何故子供の不登校を動機に挙げているのか意味不明には感じるが、もう一つの動機として「自分の対人関係」を挙げている。


まあ、躁鬱病的な思考パターンで考えれば、自分の世界観で子供を見てしまう事で「この子が対人関係に悩んで不登校になったらどうしよう」と言った所かな?



しかし、最近母親が子供を殺す事件のニュースが多すぎる。


よく聞く動機が「子育ての悩み」なのだが、子育ては悩む物ではなく楽しむ物だ。


子育てに悩むと言う事は「自分の思うようにならない」から悩む訳で、それは自分の世界観を押し付けている事に他ならない。


しかし、そんな親も自分の親から受けた育児や教育を模倣しているだけだ。


昭和30年代生まれの私は、言わば戦後世代なのだが、その当時が転換期だったように思う。


戦前や戦中育ちの人は、「自分の子供に苦労させたくない」と言う思いが強かった。

その為、学歴と言う物にこだわり、学歴を付けさせようと教育に力を入れた。


多分、その辺りから世の中がおかしくなっていったんだと思う。


昔は、洗濯一つでもタライと洗濯板で、惣菜などは売られていなかったし、家事一つとっても大変で、家族が協力し合って生活していた。

家事や家の仕事を手伝う事で、親の苦労を知り、親から色々な事を学び、そんな関係の中から親を尊敬して行った。


しかし、便利な家電品の登場や、学歴社会になるにつれ、親が子供に家事をさせなくなって行った。

そして、一体感の無い家族が増えたように思う。


それが「当たり前」と言う感覚で育った世代が親になり、その子供が親になっている。

世代を重ねる毎に「当たり前」が増大して行く。

その「当たり前」と言う感覚は、本当は当たり前ではない。


「時代が違い」とか、「今の時代は」と言う言葉をよく聞くが、人間として、家族としての本質は時代が変わっても変わらないと思う。


今の時代に欠けている物は、そうした昔ながらの家族の有り方のように思う。




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