ETVの虐待特数を見て一つ思った事がある。
性的虐待を受けたと言う人は、性に対して根底に「汚い」行為と言う意識がある様だ。
性的虐待という行為は別にして、性に対して「汚い」「いやらしい」と言う意識に疑問を感じる。
私は娘に「性行為は新しい命を作り出す尊い行為」と教えてきた。
その他にも「何故新しい命を生み出す行為がいやらしいのか?」とか「新しい命を生み出す神聖な行為をいやらしいと思う事がいやらしい」と教えて来た。
「聖なる行為だから軽はずみにしてはいけない」とも教えて来たし、「誰でも親が性行為をしたから生まれて来る、性行為が汚い行為なら、汚い行為で人は生まれてくるのか?」とも教えた。
この様に教えても、友達とのエロ話などの影響も受けるため、丁度いい頃合になると言う計算をしていた。
その結果、性に対して「汚らしい」とか言った意識を持たずに貞操観念を持った子供に育った。
また色々な「ゴッコ」遊びを通じて、体に触られる事の嫌悪感も無くしている。
これらは、明確な目的を持って行っていた。
それが「性に対する世界観」で、世界観が違えば見えたり感じたりする世界も変わる。
それは体罰も同じ。
私は体罰肯定派だが、感情的に体罰を加えた事は一度も無い。
感情的になった時は、話題を変えたりして常に自分の感情をコントロールし、体罰を与えたのは注意(指導)しても守らなかった時だけだ。
この体罰にも、普段からの接し方等で予め子親に対する子供の世界観を作り上げて置いた。
その一つがテレビ作戦で、テレビのニュースなどで親の子供に対する虐待や殺人のニュースの時に「子供が可愛くない親はいない」とか「親が子供を叱るのは、子供が可愛いいから立派な大人になって欲しいからと願いからで、可愛くない子供ならどんな大人になろうと知った事ではないから叱る事もしない」等と独り言の様につぶやいたりすると、子供はそう言った所はちゃんと聞いている物である。
娘が小学5年の時、1日学校をずる休みした事が有った。
学校から連絡を受けて、仕事先から家に飛んで帰った。
すると、娘は家にいて、私の顔を見て驚いた様子だった。
娘は学校をずる休みした事を怒られると思っていたのだが、私は「先生から学校に来ていないと連絡があって、事故や誘拐を心配した、学校を休んだ事はどうでも良い、心配させるな」と叱った。
すると娘は学校を休んだ理由を話し出したのだが「悪い事をしたと反省しているんだろ、反省しているなら良い」と、休んだ行為に関しては叱らなかった。
その後、病気以外で学校を休んだ事は一度も無い。
叱ったり怒ったりするのは、反省させる為であり、私はすでに反省している子供を叱る事は逆効果になると思っている。
こういう機会こそ、親が子供を大切に思っている事を体感させるチャンスだ。
同じ「叱る」と言う行為でも、方向性がある。
私が子供を叱った時、怒った時、体罰を与えた時、全てに同じ方向性を持った叱り方をした。
その方向性は「子供の身の心配」による物で「勉強」に関して叱った事は一度も無いし、叱るつもりも無い。
その勉強に関しても「勉強は誰の為にするのか?親の為にするのならしなくて良い、勉強は自分の為にする物で、自分のp知識や見識を深めたいのなら勉強しろ」と教えて来た。
娘が小学生の時に「将来何になりたい?」と尋ねたら「漫画家」と言っていた。
マンガを書くのだって「国語」や「歴史」や「理科」が必要だろ、それを勉強しなければマンガを書くことも出来ない等と言って勉強させた。
基本的には「子供の存在を肯定」する方向性を持って育ててきたのだが、子供との遊びの中で「存在の無視」の要素も取り入れていた。
娘が目の前にいるのに「何処だ~!」と探し回り、ぬいぐるみを見て「こんな所にいた」と、娘を完全無視する遊びもした。
すると娘は「私はここ」と主張するのだが、それでも無視する遊びだ。
これにも意味がある。
存在をストレートに認める事だけしていたら、表面しか見れなくなってしまう恐れがある。
表面上は認識されていないように見えても、ちゃんと認識されていると言う感覚を持たせる意図が有った。
その結果、態度や言葉に表さなくても思いが伝わるようになっている。
これも一つの世界観で、こう言った世界観を持たせる事が重要だと思う。