以前、ゆとり教育に対する親の意見を取り扱った番組があった。


ゆとり教育に反対の理由として目に付いた意見が「子供が家にいると、昼ごはんなどを作らなければならない」とか、「休み(土日)に何をさせたら良いか分からない」と言う理由で、ゆとり教育に反対する親が非常に多かった。


でも、そう言った意見は、見方を変えれば「子供が邪魔」と言っているのと同じだと思う。

そう言った事を思っていれば、必ず態度に出てしまう。

子供はそんな親の態度に、自尊心を傷付けられて行く。

親は、親の責任を学校に押し付けて、自分が楽をしようとしているだけではないのだろうか?



自尊心はポイントカードと同じで、どんな些細な事でも一つ一つポイントが貯まって行き、ポイントカードが一杯になった時に爆発する。


親は、些細な事は覚えてもいないが、子供にとっては着実にポイントが貯まって行く。

「勉強しろ」当たり前に使われる言葉一つでも、勉強しているのに勉強しろと言われる子供にとっては自尊心が傷付く事になる。

ましてや、勉強したのに成績が下がったと言って怒られる事は、自分が勉強した努力や時間を否定される事になり、その間の自分の存在を否定される事と同じだ。


「学校任せ」・・・それは親の責任と義務を学校に押し付けているだけではないだろうか?


私の娘が、いじめに遭っていた時も、私は学校に相談した事は一度も無い。

私は、どんなに時間がかかろうと、アドバイスだけして娘に自分で解決させた。

親と言う字は「木」の上に「立って」「見る」存在でなくてはならない。

それは、厳しいようだが、子供が自分で解決すべき問題で、親がしゃしゃり出るべきではない。

子供に自らの力で問題を解決させなければ、子供を大人へと成長させる事は出来ない。


私の子供の頃を思い返すと、子供同士の問題にしゃしゃり出てくる親は滅多におらず、親がしゃしゃり出て来た子供は一人いたが、現時点でろくな人生を送っていない。(現在シャブ中で廃人)


私の子供の頃をい思い出すと、実家が自営業(写真屋とプラモデル屋)と言う事もあり、親の仕事を手伝わされた。

子供心にそれが嬉しくもあった。

例えば、店番を任されると、「任された」と言う事に喜びと責任を感じていたし、写真の現像やカメラの扱い方など、学校では教わらない専門知識も覚え、小学生時代から高校生時代を通じて、写真に関する担当はいつも任される事になった。


「何かを任される」と言う事が子供の成長には必要だと思う。

だから私は、自分の娘に対しても、小学生時代から「毎日のご炊き」と「洗い物」を未だに続けさせている。

こんな些細な事でも、家族としての役割を「任す」事で、自己認識と責任感を植え付ける事が出来る。


この「ご飯炊き」も、娘が忘れた時に私が炊くのだが、数回私が炊いたご飯を食べると、違いに気付き、炊き方の違いを探り始めた。

実は、私は学生時代に「すし屋」でバイトしていて、その時の覚えた「すし屋」のご飯の炊き方でご飯を炊く。

娘は、しきりに炊き方を聞いてくるのだが、教えない。

すると、私が炊く所を見て、自分で炊き方の違いを調べようとする。

「向上心」の芽生えだ。


この「ご飯炊き」と言う何気ない事でも、自己の確立の一つになる。

少し面倒臭い話なのだが、実際に「ご飯が炊いた事がある」のと、「炊き方を知っている」のでは全く違う。

実際にご飯を炊いていれば、どうしたら美味しく炊けるかも学び、ご飯を炊いてと言われても、自信を持ってご飯を炊く事が出来るが、炊き方を知っているだけでは、実際にご飯を炊いても美味しく炊けない。

この両者の違いが、根拠のある自尊心と、根拠の無い自尊心の違いで、根拠のある自尊心は簡単に傷付く事は無いが、根拠の無い自尊心は簡単に傷付いてしまう。


根拠の無い自尊心が傷付いた時に、自己の存在を認めさせたいと言う衝動が起きる。

その衝動の向う方向が、内向的に出るか対外的に出るか、内向的でも自己向上に向くか、自己否定に向くか、対外的には社交的に向くか、攻撃的に向くかは、個人の性格により異なる。


そう言った自尊心の根源は家庭にある。


次は社会編




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