前回、自尊心に触れたので、もう少し自尊心について書こうと思う。
これは「いじめ」の問題にも大きく関係している。
自尊心は、人格を形成する為に不可欠な要素だ。
問題は、根拠のある自尊心か、根拠の無い自尊心かの違いだ。
自分で何かを作り、結果を残し、問題を解決した経験を有する自尊心と、自分では何も成し得ていない自尊心は根本的に異なる。
この「自尊心」と対極に有る物が「羞恥心」である。
根拠のある自尊心は健全な羞恥心を育むが、根拠の無い自尊心には健全な羞恥心は育たない。
その為、根拠の無い自尊心を持っている者は、無意味な羞恥心を持つ。
つまり、普通なら恥でも何でもない事に対して「恥」と感じてしまう。
逆に、普通なら恥かしく思える事に、恥を感じず、空虚な自分をさらけ出してしまう。
メインサイトの掲示板 に出たMMBOY氏もそのパターンだ。
こう言ったパターンは、この人に限った事ではなく、根拠の無い自尊心を持った人に見られる共通したパターンだ。
また、根拠の無い自尊心は、自己正当化が強く出る傾向がある。
それは、ニートやヒッキーと呼ばれる人達や、集団ストーカー被害者と呼ばれる人達にもその傾向が強く見受けられる。
自尊心は、人格を形成する為に必要不可欠な要素である為、その是正を試みようとすれば、彼等には存在の否定として写り、強い拒否反応が起きる。
そして、謙虚と卑屈を取り違え、意地を張り通す。
意地を張り通しても、自分に合わせて世の中は変わらない。
謙虚と卑屈を取り違えて意地を張り通していれば、勝ち負けにこだわり、負ける事を「恥」と思えば、負けたくないと言う気持ちが心を頑なにさせる。
しかしそこには元々勝ち負けなど存在しない。
それは、風車を巨人と思い込み戦いを挑むドンキホーテと同じで、それこそが「恥」である。
自然界を見ても、環境に適応した種が繁栄し、環境に適応出来ない種は絶滅している。
つまり、環境に合わせて自分を変える事が出来た種が生き残り、結果として「勝ち組」になっているだけで、勝ち負けにこだわった訳で無く、必死に生きた結果でしかない。