久しぶりにアマゾンのレビューを覗いてみた。


12件に増えていた。


また一人おかしな奴が増えていた。


出だしから「>実際に集スト被害者に対しての取材はされていない すると単に主観を書いているに過ぎないということですね。 」


これだ~!

確かに取材などはしていない、しかし調査はしている。

取材は言い分を聞くだけだろう、しかし調査は機材を持ち込み測定して調べている。


それなのに取材をしていないと「主観」になるのか?


そこから妄想を膨らませ、「政治判断的」な所まで行っている。


これは妄想の縮図だ。


最初からボタンを掛け違えただけで、ここまで妄想が膨らんでしまう典型的な例だろう。



そのレビューに23人中14人も「参考になった」と投票している。


こう言ったレビューは、別の見方をすると面白いかもしれない。

一般的な書物の本のレビューは「面白い」か「面白くない」に分類されるが、私の著書は何故かそう言った傾向が少ない。


理由も判っている。

それは「読んでいない人」と「読んだ人」が混在している為である。


一般的な書物のレビューは、読んだ人の感想が書かれるが、私の著書は「読まない人」がレビューを書く。


その為「面白い」「面白くない」と言う話にならず、「著書の否定と肯定」と言う形になっている所が面白い。


いや、本当に実に参考になる。

例えば、「>実際に集スト被害者に対しての取材はされていない すると単に主観を書いているに過ぎないということですね。 」

これだけでも、こう言った人に何が足りないのか、何故そう言った発想になるのかが判る。


例えば、「取材はされていない すると単に主観を書いているに過ぎないということですね。」

つまり、この人の思考は「出版」=「取材」であり、「取材」≧「調査」と言う概念が無いと言う事だろう。


それはそのままその人の思考レベルを表す。

ここで言う思考レベルとは、頭が良いとか悪いとかと言う事ではなく、学力とは関係ない。

より大きな世界を認知する能力と言う意味だ。


例えば、2歳程度の子供は実物大の世界と、それをスケールダウンしたミニチュアの世界の同一性を見抜く事が出来ない。

それが、3歳になるとそれを見抜く事が出来る。

その違いは、成長ではなく「経験」だ。

2歳程度の子大きさの違いを理解出来ない子供でも、大きさの違いを繋ぐ経験を積ませると大きさの違いを認識出来るようになる。


大人になるに従い、自分を取り巻く世界は大きく複雑になって行く。

一つ大きな世界へ上がる度に、一つ上の思考レベルが必要になる。


会社でも同じだろう。


平社員の感じる世界(目線)と、役職が付いた人の感じる世界(目線)は異なる。

かと言って、平社員は役職の付いた上司の世界を知らない訳ではない。

平社員が、役職の付いた上司の目線になるには、その立場にならなければ理解出来ない。

これが、ここで言う思考レベルだ。


つまり、この人はそう言った思考レベルが低い事を物語っていて、その他の思考や考察も同じ思考レベルで考えていると言う事だ。


その思考レベルで考えるから「被害体験を持たない者が、実際の被害者に対する取材をしない主観を真実として一冊の本を出版できるならば、 集団ストーカーに関する実体験の情報を豊富に保有する被害者にも出版の機会を与えるべきですね。 でないと不公平です。いい加減というしかない」

と言う発想になる。

そこから「なんとなく政治判断的なものを感じることを禁じ得ませんが」と言う所まで発展してしまう。


昨日、教育テレビで学校と塾に関する番組を見ていたが、そこにも原因が潜んでいるのかもしれない。


学校は「クラスが一緒になって試行錯誤する」のに対し、塾は「効率の良い問題の解き方を効率よく教える」

この違いなのかもしれない。


私は結果よりプロセスが大切だと思っている。

商品開発でも、効率よく簡単に商品が開発できる訳ではなく、試行錯誤を繰り返して商品を生み出す。

その試行錯誤の中での失敗が「ノウハウ」になり、新たな商品開発の礎となる。


勉強や人生も同じだろう。

試行錯誤の中で得られるノウハウの蓄積が、思考レベルのステップアップに繋がり、どれだけ学力が有っても思考レベルが上がらなければ意味が無い。

早い話が、東大を出てもヒッキーになっていたのでは、何の意味も無いと言う事だ。





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