決断とは何かを選び、何かを捨てる事だ。
躁鬱病(躁病・鬱病)を発症する人に多く見られる傾向に、決断力の無さがある。
決断を迫られた時に、かなりのストレスを受ける人が多い。
それは同様に自分が無いと言う事でもある。
それは自分の居場所と言うか、立ち位置が不明確と言う事でもある。
それは確固たる自分が無いという事だ。
それは人間が勝手に作った「道徳」や「常識」等で判断しているに過ぎない。
その道徳や常識も立場によって変わる。
例えば、人殺しは悪い事、当然だと思う。
だから、どんな国家でも「殺人罪」と言う罪がある。
しかし、殺人罪と言う罪を作っている国が、戦争をして敵国の兵士や民間人を殺す事は、同じ殺人なのに殺人とは扱われない。
そればかりか、多大な戦果を上げた兵士は、勲章をもらい英雄になる。
名だたる将軍は、大量殺人者でもある訳だ。
結局、どんな選択をしても等価値である。
損得と言った物も、立場や考え方で変わっているにすぎない。
自分の持っているベクトルが無い状態の時は0である。
決断値を3とすると、+を選んでも-を選んでも±3にしかならない。
どちらを選択しても質量は3でしかない。
しかし、ベクトルの数値が+3であれば、+3の決断をすれば+6になる事が予想され、-3の決断をすれば0に戻ってしまう事が予想出来る。
その為、+3の決断を選択する事が容易になる。
ベクトルが+3の人が+6の結果を出したのを見て、ベクトル0の人が真似をしても+3にしかならない。
その+3と+6の違いがベクトルであり、+3以上へ進む為の壁を乗り越える力でもある。
しかし、ベクトルが0の人には壁を乗り越える事が出来ずに、結局0に戻ってしまう。
どんな決断をしても同じ質量の問題が存在する、根底のベクトルが定まっていればその問題を克服して先に進む事が出来るのだが、根底のベクトルが定まっていなければ、その問題を「決断の誤り」として修正しようとする。
その結果、何時までも自分のベクトルが定まらなくなり、迷走状態になる。
逆に、確固たる信念(ベクトル)を持っていれば、他人の意見に惑わされる事はなく、大多数が黒と言っても白と言う事が出来る。
それは自分が+6の数値を出していれば、ベクトル0の人が+3と言っても+6と言い切れると言う事でもあり、それが信念と言う物だ。
話は飛ぶが、裁判員制度に疑問を感じる。
ベクトルが定まっていない人に、裁判と言う決断に関わらせるのは半端なストレスではない。
机上の空論のような感じがするし、それを実行に移す事に疑問を感じる。
そもそも、個人主義の欧米人には良くも悪くもベクトルが定まっている人が多いのだが、日本のような団体主義の国に個人主義の考えを持ち込む事が間違っているような気がする。
自分の判断として答えを出すと言うより、今流行のKYで他人の動向を見て判断する様になるのではないだろうか?