このブログで、同じような事を何度も書いているが、自分が感じている世界は、鏡に映った自分の心を見ているに過ぎない。
他人が自分の事をどう思っているかなどは、誰にも判りはしない。
それをこう思われていると感じるのは、自分の心が思っているだけだ。
つまり、自分が感じている世界観なんて物は鏡に映った自分の心を見ているに過ぎない。
自分の心が荒れていれば、他人から見れば恵まれていると思えても、本人は殺伐とした荒れた世界観を持つ。
自分の心が幸せで満たされいれば、他人から見ればどんなに不幸であっても、その人は幸である。
この現実の世界も、人の心から作り出された産物だ。
ビルや橋、電話やパソコンなども、誰かが「作りたい」と思わなければ存在しない。
人が作り出す人工物は全て「誰かが作りたい」と思わなければ存在しない。
経済や戦争だって人の心の集合体としての産物でしかない。
たかが心とも思うかもしれないが、世界を構築しているのは、自然界の物以外は全てが人の心の産物だ。
大切なのは自分の心の使い方である。
「いじめられている」と言う世界観を持つ事は「いじめられている」と言う世界を自分で構築していると言う事でもある。
自分の心が変われば、それが態度に出る。
心が態度に出れば、相手の心にも影響を与える。
それが「合わせ鏡」の様に連鎖して行く。
どちらかが、鏡の向きを変えれば合わせ鏡の連鎖は無くなる。
それを他人に求めていては、いつまでも合わせ鏡の連鎖はなくならない。
しかし、そこに厄介な問題がある。
それは、対価や見返りを求める心だ。
「私がしたんだから、貴方もしてよ」「これだけやっているのだから」と思う心だ。
その心がある限り、合わせ鏡の連鎖から抜ける事は無理だろう。
合わせ鏡の始まりも同じ心理で始まるからである。