私が最初にフィリピンへ行ったのは20年程前だ。


その時に思った事がある。

それは「日本はいずれフィリピンを含めたアジア諸国に抜かれるな」と言う印象だ。


当時、日本はバブル直前で景気は良かったのだが、そんな時期でもフィリピン人のバイタリティーに圧倒され「これがアジアか!」と思った。


当時の日本の女性は3高「高学歴・高収入・高身長」の男を好み、男は3K「きつい、汚い、危険」な仕事はしない。

そんな時代だった。


当時のフィリピンはスモーキーマウンテンと呼ばれる貧民街に代用されるような貧しい国で、クーデターも発生している不安定な国だった。


そんな中でも、人々の暮らしはたくましかった。


空港を出ると、大勢の人が「荷物持ちます」と集まり、「いい女いるよ」と売春斡旋、タクシーが信号で止まれば「花」や「煙草」を売りに来る。

スモーキーマウンテンはゴミの山が自然発火して、いつも煙が出ている事で名付けられたゴミの山だが、そこには多くの人が住み、ごみの中から売れそうなお宝を探して生計を立てていた。

街に野良犬や野良猫は一匹もいない、当時のフィリピンはそれも食料だった。


しかし、それが「生きる」と言う事だ。

そんな貧しさの中でも、笑顔で生きていた。


贅沢や体裁が当たり前の日本と、生きるバイタリティーに溢れたエネルギッシュなフィリピン、あまりにも違った。

しかし、日本も戦後は似たような物だった。


私の幼年期の体験で、今でも印象深く記憶に残っている事が二つある。


一つが、ボロボロの軍服を着た足の無い元兵士。

私が幼稚園以前に見た光景だが、空き缶を置いて、膝から先が無い足で正座常態で座り、やせ細り物乞いをする戦傷兵の姿は未だに目に焼きついて離れない。


国の為に戦い、足を失い物乞いとして生きている人・・・何かおかしいと子供心に思った。

父は、そんな私の質問に「あれはただの怠け者」と言い放った。

そして「怪我で同情を引こうとする奴は最低だ」とも言い放った。

当時は、酷い事を言う父と思った物だが、同じように手や足を無くし、目を失った人でも立派に働いていると言う事を後日知った。

また、いつも陽気な元戦車兵の将校だった父の親友は、中国戦線で戦っていたのだが、日中国交正常化の時に中国の話をしたら、とても暗い顔になり「二度とあの国での事は思い出したくない」と言った。

よほどのつらい想い出があったのだろう。

あんな暗くて、悲しそうな顔を見た事は無かった。

この時に、あの足の無い兵隊さんの事を思い出し、父の言った言葉の本当の意味が理解出来た。

多分、父は「あの戦争を戦った者は、手足を失う様な傷は無くても皆が心に大きな傷を持っている、皆そんな傷を乗り越えて生きている」と言う事を言いたかったのだろう。


少し毛色の違う話だが、昔、年配の人と話をしていた時に「特攻隊は幸せ者」と言う言葉を聞いた事がある。

私のように戦後生まれの人間は、特攻隊は悲劇の主人公と言うイメージが有ったので「え?」と思った。

昔の話なので、ガダルカナルだったかサイパンだっかかは覚えていないが、玉砕戦の生き残りの人だった。

その人曰く、我々は食べる物も無くほとんどの戦友が、飢えと病気で死んで行った、撃つ弾も無く、小銃に銃剣だけを刺して突撃命令を受け、敵の機関銃の前に飛び出して行った。

特攻隊は食料もある国内で、前線では戦っていないじゃないか・・・

特攻隊が特別なんじゃない、皆同じだよ、特攻隊は飯が食えただけ幸せ者さ・・・

目から鱗だった。


もう一つの未だに忘れられない幼年期に見たものが、伊勢湾台風の孤児の兄弟だ。

私が幼稚園に入る以前に、家族で不二家パーラーで食事をした。

私は全部食べられなかったのだが、その様子を私より少し年上の兄弟が窓から見ていた。


そして不二家を出るのと入れ替わりに、その子達が店に入り、私の食べ残しを袋に詰めて走って出て行った。

私は父に「あの子達は誰?」と聞くと、「多分孤児だろう」と教えてくれた。

しかし、当時は「「孤児」と言う言葉すら知らず、孤児とは親のいない子供と言う事だけ教えてもらい、孤児と言う言葉とその光景だけが目に焼きついた。

それまではハンバーグやお子様ランチなど好きな物を食べて、嫌いな物を残していた自分が当たり前だと思っていた。

親も無く、人の食べ残しを探して獲得して生きている同世代の子供がいる事を知った時、子供心に自分が恥かしくなった。

その後日本は急成長を遂げた。


始めてフィリピンに行った時、その当時の日本の光景と当時のフィリピンが重なって見えた。


今のフリーター、ニート、就職先が無いから・・・?

当時のフィリピンは、就職先など無かった、それでも自分で花を摘んでを売ったり、かばん持ちをしたり、何とかお金を稼ぐ方法を考えて生きていた。

日本では難しいかもしれないが、物語でも靴磨き、マッチ売りなどは定番だ。

当時、クリスマスが近かったせいも有るのだが、そこらの木の枝を切って来て白く塗って「クリスマスツリー」としても売っていた。


日本の屋台も同じような物だ。

今は軽トラが主流だが、昔はリヤカーの手作りだ。


そんな世界を見た経験が有ると、父が足を無くして物乞いをしていた兵隊に「あれはただの怠け者だ」と言ったのと同じ様に思う。

私自身、山あり谷ありの人生を歩んでいる。

19年前に自己破産も経験した、その時にサラ金の取り立ても経験した、妻が肺結核になり介護と言う物も経験した、詐欺にも合った、夜逃げもされた、持ち逃げもされた、借金に負われる事も有ったし、他人の負債を肩代わりした事もある、死を覚悟でヤクザの家に乗り込んだ事さえある、そして数年の間月に100万以上稼いだ時期もある。


人生良い時だけが永遠に続く訳ではない、色々な災難が沸いてくる、何度も稼ぎ、何度も金を失って、何度も0から再出発して来た。

それはそれで結構楽しかったし、人生の糧にもなっている。

その0からの再出発は全て自営業で、就職には頼っていない。

何かに頼っていたり、何かのせいにしていたら、いつまでたっても進歩は無い。



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