昨日は、母の日だった。

 

先週から、子供たちが何やらコソコソしていて、「ママは地下室に来ちゃダメ」とか、金曜日は帰ってきた早々、二人ともダッシュで2階へあがっていったりと、母の日のために一生懸命何かを仕込んでくれているんだろうと、とても心待ちにしていた。

 

朝、6時半頃目が覚めたが、今日は「僕たちが起こしに行くから、それまで寝ていていいよ」と言われていたので、携帯をいじりながら、3人(主人、ルシュキちゃん、クアちゃん)が来るのを待った。

 

7時。。。。7時半。。。。まだ来ない。(笑)

 

8時半になって、ようやく足音が聞こえてきたので、さっと寝たふり。しながら、こっそりとみんなが来る様子をビデオに収めておいた。ふふふ。

 

ブラインドをあけて、「ママ、ハッピーマザーズディ!」と、3人がとても誇らしげに入ってきた。

 

ルシュキちゃんとクアちゃんは手にギフトバッグを持って、主人はトレイに朝食とコーヒーを持って、3人とも慢心の笑み。



私の大好きなベーグル! 


「ママ、これは僕からのプレゼントだよ。はい! 開けて、今すぐ開けて!」とクアちゃん。

 

「ママ、これは僕のだよ。僕のから開けて。」とルシュキちゃん。

 

「あ、これは面白いから、これから開けて!」と二人が口々に嬉しそうに興奮しながら伝えてくれるのがとても可愛い。

 

「あー、ママはとっても幸せ。とっても嬉しいなぁ。じゃぁ、順番に開けていこうね」と言って、ルシュキちゃんのバッグを開けた。

 

中には、ママのことを書いた本と、面白いキーチェーンと、素敵なトートバッグが入っていた。

 

クアちゃんのバッグには、手形のトレイと、かわいい絵が入っていた。



2人が「面白いから開けて」と言ったカードは、二人からのとってもかわいいカードだった。二人にそっくりなキャラクター。



そして、主人から本当に素敵なメッセージが書かれたカード(ジーンとして、泣いてしまった)と、ずっと欲しかった2連のペーパークリップの14金のネックレスをいただいた。以前、偽物ゴールドのものを激安サイトで買ってからずっと使っていて、こんなに使えるなら、やっぱり本物のゴールドのものがほしいな、と思っていた。

 

持っていた安物ネックレスは1連だったが、ルシュキちゃんとクアちゃん、二人がいるから、母の日にもらうものは常に2つデザイン、と決めている。だから、このネックレスも2連のものをプレゼントしてもらった。とっても嬉しい。



ベビーシッターのハナちゃんからも、すてきなカードをいただいた。

 

ベッドでは朝食が食べにくいので(笑)、コーヒーをすすって、ベーグルを半分食べたところで、トレイを下に持っていて、パジャマのままでダイニングルームで皆で朝食をいただいた。

 

そして、さっそく私の母、義理のおばあちゃん、義理の母に電話をして、「母の日、いつもありがとう」とみんなで伝えた。

 

それからソファに座って、3人で、Dr.SeussのThe Loraxを観た。

 

 

そして、午後は最近二人がハマっているボウリングへ。




ボウリングのあと、大好きなアイスクリームやさんへ行って、帰路についた。

 

夕食は、主人がとっておきのステーキを作ってくれた。すごいトモホークステーキ! 昨夜、わざわざ遠くまで買いに行ってくれたもので、一晩プラス1日かけて、ドライブラインドしておいてくれた。本当に美味しかった。 



その後、夕食のお散歩に4人で出かけて、近所を一回り。

 

家の前に植えているアリウムが満開になってかわいい。




今日はベビーシッターのハナちゃんがお休みだったから、子どもたちをお風呂に入れて、主人が寝かしつけをする間、赤ワインを飲んだ。
 

なんて幸せなんだろう。と、心の底から感じた。

 

私が二人の母であれることに、心から感謝した。

 

そして、私の母の写真を見返した。

 

17年前に、父と母と3人でLAへ行ったときの写真。この写真の母が、私はとても好きだ。



私の母と私の関係は、100点満点、大好き、楽しい~! では決してない。

 

日本に帰ると、母と過ごすのは1週間が限界で、口喧嘩になっては実家を出てホテルに避難。改めて、私がなぜ母から遠いアメリカに住んでいるのかを思い知らされることになる。

 

そのことを、この母の日に、改めて考えてみた。

 

私の母は、病気と思うほど過干渉で、そのうえ心配性がひどい。

 

小さな頃から、母のヒステリーを聞きたくないから、いい子でいよう。いい成績をとって褒められよう。認めてもらおう。と頑張ってきた。でも、母は、自分の言いなりにならないとヒステリックに怒り、彼女の価値感を押し付けてきた。

 

どうせまた否定される。

どうせわかってもらえない。

言うといろいろ言われるから嫌だ。

 

というのが私が母に対する感情で、それでも、私は心のどこかで「母に褒められたい。認めてもらいたい」と諦められず、期待を込めて、褒められそう&認められそうなことしか言わない、そういう言い方しかしない、という自分になっていた。

 

得られることは決してないと思っている母からの承認を、諦められない。

 

その圧迫感、悲しみから、私は逃げているのだ。

 

大好きすぎるからこそ、私を承認してくれない、肯定してくれない母が嫌い、という矛盾。

 

この矛盾を解いて、素直に「大好きだから、それでいい」と思えるにはどうしたらいいのかな、と考えた。

 

まず、自分が大好きなことと、母から承認を得ることを切り離して考えよう。

 

自分は母が好き。喜ばせたい。伝えたい。これはこれで完結する。私から母への感情。

 

勝手に期待して、期待を裏切る母に怒る、というのはちゃんちゃらおかしな話なので、母には期待しない、と腹をくくる。

 

彼女からの否定は来て当然、と構える。仕方がないと受け入れる。

 

でも。

 

この否定と、母からの私への愛は、これもまた切り離して考える。

 

否定しても、認めなくても、私のことを愛している、彼女は本当に私を愛していて、心配しているんだと納得する。

 

だから、別に、認められなくても、否定されても、大丈夫。

 

自分がやりたいことを、やればいい。言えばいい。

 

承認を求めなくていい。

 

母に否定されても、自分の価値は変わらない。価値は大きい。

 

承認されたら愛されている証拠、という愛を求めなくていい。なぜなら、もうそこに愛はあるから。いっぱい愛があるから心配するし、過干渉なのだ。

 

母とはそういうものなのだ。

 

それは、私が母になったからわかる。特にルシュキちゃんは頑張り屋さんで、ママのために頑張るところがあるのを、私は気づいている。でも、頑張らなくても、私へのルシュキちゃんへの愛は、絶対に変わらない。頑張ってくれることと、母からの愛に、関係性はないのだ。

 

そんなことを、考えていた。


今もハマスの人質に取られている一人に、ハーシュ・ゴールドバーグ・ポリン、という男性がいる。彼の母親である、レイチェルは、TIMESが選ぶ最も影響力のある人100人に選ばれたほど、10月7日から精力的にハーシュを取り戻すために全世界を駆け巡って人質認知の活動をしていて、本当に心から敬意を示す女性である。

 

彼女が、息子が人質という、想像もつかない悲しみの中で迎えた母の日に、ハーシュが3歳になったときに書いた手紙を読み上げたインスタのポストを観た。

 

 

 

先日のブログで、突然死した友人の妹の話を書いた。


他界した彼女の6人の子供たちは、どうしているだろう、と思った。母の日に、母のシヴァに座るというのは、本当に言葉がないほどいたたまれない。


母であること、母がいることに心から感謝するとともに、私の母のことを想い、悲しみの中にいる母親と、母親を亡くした子供たちのことを祈った。