結婚して、大会ホールの奉仕、RBCの奉仕と2人でとにかく忙しくしていた。もちろん仕事も。
父はやがて僕になったが、ほどなくしてごたごたがあり、逃げるように故郷へ。
それも納得いかない仕方だった。要するに邪魔な存在だったのだろう。母の、当人たち同士で解決すべき小さな問題を膨らませて大きく扱われ、しかも自分の研究生だった人たちから、いわば刺された。
故郷では父に仕事など見つかるはずが無かった。でも、安くてきつい仕事につき、母も集金などの仕事をしていた。
当然生活は立ち行くはずも無く、実家から借りていたようだ。その話がまつの耳に入り、わずかばかりだが、会いに行くときには置いてきた。
やがてまつたちも子供を持とうと決め、カルテにマル高と書かれる歳で子を持つ。
お互い一人っ子。いつまでも好きな奉仕をしていられるわけでもない。親の面倒を見るなら、子供をもうけて爺さん婆さんの喜びを感じさせてあげたかったし、人としての大仕事に関わりたかった。
自分たちももう深く関わりあいたくはなかったのだ。
ひどい話やひどい目に思い出したくないほど遭っていたから。避難所といわれるこの組織で…。
いいこともたくさんあったが…。
ネットには90年代からアクセスしていた。情報はたくさん得られる。背教者といわれる人たちが何を書こうが、リアルな情報には及ばなかった。
よくある話だし、曲解して伝わっているものだってあるし、もっとエグイ話も知っていた。
それほど全国・海外に人脈もあるし、深く関わっていた。
自分たちが経験していることや、聞き及ぶことはレアなことではないことだけは分かった。
だから、ネットを禁じてたんだろな。
長老として、まつは自分に与えられた、できることの大きさにほんとに感謝していた。
モットーは成員を組織からも守ること。
日本人は生真面目で常に厳しいほうに拡大解釈してしまうから。
英文では解釈の異なる、日本人ならではの厳しい解釈やローカルルールからとにかく守りたかった。
取り決めの真意や本来の目的を、他の会衆の例や親しい大長老と言われる人から教えていただいたりしてまでも、田舎の会衆に理解してもらおうともした。
以前立場がありながら、訳あって降りている経験ある方の復権や、排斥や断絶した方の希望する復帰には、心の中でとりわけムキになって力を注いだ。いくらか痛みを知るものとして。
しかし、ある一定の効果はもたらしはしたものの、たいした結果は出なかった。
一介の長老ではなんともできないことが多いのだ。
やがて、両親たちのうち3人が次々とがん患者であることが分かり、時間、体力ともに限界だったまつは長老をやめさせていただいた。
息子が小学校に入る4ヶ月前だった。