42年生きてきた。
胎児の頃に母が研究を再開し、1歳の頃バプテスマ、翌年父が。今はない後楽園競輪場でのこと。
その都市の最初の神権家族になった。
今の支部委員や古いベテル長老達が巡回さんの頃、来る人来る人全部の宿舎を提供したそうで。
「まつは〇崎兄弟にオシリされたんだよ」なんて自慢も。
小一の頃父が長老になり、以来誰の父さんだかわからないほど会衆を世話するために、また小さな家族を食わせるために忙しくしていた。
同じ頃母は開拓者となり、日本で2番目のクラスの開拓奉仕学校に。
大会では父は部門監督、母は会場整理や盛り付け部門で働いていた。
朝早く、誰もいない頃会場に入り、誰もいなくなるまで会場にいた。
だから同じような神権家族と必然的に仲良くなる。
ともだちはみんないわゆるチョームス。
正直な話、特権階級的な思いはあった。
競輪場で開かれる大会では、毎年、選手用の駐車場に特別の駐車券で止めさせてもらい、昼食は部門ごとに発注して届けられたので、ほとんど並んだことはない。
小学生の頃からいろいろな部門で奉仕させてもらい、人の役に立つことの喜びは知ることができた。
おやじが長老で母が開拓者。
やめたいなんて口が裂けてもいえない。会衆での自分に対する期待も重くのしかかる。
お兄さん達はみんな中3の受験を機に離れていき、いつの間にかじぶんが一番上の年代になっていた。
ものすごく嫌なのに、あたかも「喜びにあふれていますっ」て顔で過ごした高校時代。
この頃から、いつか精神的に病んでしまうだろうなとはおぼろげに感じてはいた。
開拓奉仕を始めてしばらくして身体を壊した。
責任上仕事は行けるけど、野外奉仕は全くもって出ることができなかった。
カードを持って出かけても渡して帰ることもしばしば。
いつも何となく頭が痛くてふさぎ込んでいた。
「開拓じゃなければ非国民」的な考え方があって、これから一生こうして生きていくのかと絶望感に打ちひしがれていた。
やがて体調不良の原因が解かり、一気に元気を取り戻していった。
タイミングよく大会ホール建設の奉仕に呼ばれ、全く新しい輝かしく見えた生活に入る。
本当にうれしくてうれしくて、できる限りの能力を発揮しようと、できる限り吸収しようと張り切っていた。
接した先輩達からはほんとにたくさんのことを教えてもらった。仕事もプライベートも。
いくつかの大会ホールの建設に携わり、いい経験をさせていただいたと感謝している。
そんな矢先。おやじが長老を降りた。降りるような理由でもなかったようだが、うまいことやられたようだ。
人々は手の平を返したように近づかなくなった。
RBCも発足し大会ホールの建設と重なった時期もあるが、これまで100件は軽く越えるKHの建設にも携わらせていただいた。
建設の要となる部門で長老になる前から部門監督として働かせてもらい、貴重な経験もさせていただいた。
いろいろあったが…。