まつ再び・・・ -14ページ目

まつ再び・・・

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先週の土曜日。
忙しく仕事していると、幼なじみからの電話。
こちらを気遣っていたが、どうも彼らしいいつもの勢いがない。
「どした?」と聴くと。
お袋さんが、長年ガンを患って、腹水が溜まって肺に達して虫の息で、あと一週間くらいだと思うと…。
人が来たのは解るけれど、もうほとんど反応がない、と…。
「どうしてもっと早く行ってくれなかったんだよ!!」と喉まで出かけたが、かみ殺した。



小学校に上がる前、母親同士が仲良くして、一緒に奉仕に連れられて行ったり、遊んだりと、気心知り尽くしたヤツ。未信者の家庭の子供らしく、服装も自由で、奉仕には野球帽をかぶって来てたりした。
うらやましくてしょうがなかった。

小学校に入ると同時に引越しし、はなればなれになってしまったが。中学、高校とよく泊まりに行った。
新築の家には便利なものがなんでもあって、とてもおしゃれにしていた。
お母さんの趣味で。

朝はコーヒーとトーストの香ばしいかおりで目覚める。
「ごはんよー」と言う声にうながされてリビングに下りていくと、大きなテーブルにクロスが掛けてあって、ランチョンマットに置かれた花柄の大皿にぶ厚いトーストとスクランブルエッグ、サラダとアメリカンチェリーがのっている。
これがモーニングプレートだ。

田舎育ちの両親に育てられ、醤油くさい質素な生活が普通だったまつには、とてもハイカラで、とてもおしゃれに映った。
緊張しつつもほおばったあの味は忘れがたい。

ヤツも先頭に立って何でもやる男だった。
会衆では若い子達を集めてサッカーや野球、音楽を編集して聖書中の物語の劇を作ったりもした。
まつの地元の会衆はお兄さんたちが皆全滅して、必然的にチョームスのまつが最年長になったから、ヤツの会衆からフィードバックして交わりやレクを企画して、おかげで盛り上がった。

ヤツにはいろんなことで刺激を受けた。
建設人生にはまり込んだのも、ヤツのせいだ。
免許を取ったばかりのころ、大会ホール建設に専属で奉仕している兄弟たちの部屋を一緒に訪ねた。
プレハブのいわゆる飯場(はんば)だったが各部屋に仕切られていて3人部屋できれいにされていた。
少し先輩のお兄さんたちは、ほんとに生き生きとして爽やかだった。
少し前に、関西大会ホールを見学しに行って建設奉仕の魅力を肌で感じたこともあったが、幼少のころからベテル奉仕を希望していたまつには、その奉仕はとても魅力的に思えた。
帰ってからすぐ大会ホール建設奉仕の申し込みを出した。


高校時代道を踏み外しそうになったものの、今ではMTSを出て、子持ちでありながら大会監督まで努めるヤツに育て上げたのも、お袋さんの旺盛なもてなしの精神による成果だと思う。
学んだばかりのころだって、いまや支部を代表する兄弟たちが巡回さんのころ、幼少のまつの家を宿舎にしていた彼らを、いつも積極的に食事招待したり、援助したりしていたそうだ。

まつと同じ町内に住む、腐れ縁の飲み友も、ヤツの引っ越した先の幼なじみだ。
さんざん世話になったという。あのうちにはいつも誰か来ていたと。



一日あけて月曜日。

訃報を受けて、その彼と午後から出掛けることにした。
お顔だけでも見に。親父さんも心配だった。


その朝、仕事を始めてのってきたころ、ヤツから電話があった。

「いまさ…。お袋亡くなったんだ。」

「早かったな…」

前日、まつの両親は、お袋さんに会いに行っていた。
「もう解らないかもしれないけど、会っておきたい」と。
そのときはずいぶん調子よく、ベッドを起こして「わはは、うふふ」と昔話に花を咲かせたそうだ。
信じられなかったが。帰ってきた両親は「やばいかも」と言っていたのだ。
「最後の空元気なんじゃないか」と…。

寝かせてある部屋に入るとそのお顔は、がんで亡くなったとは思えないほど、やつれてはいなかった。
歳はとったもののあの顔だ。
心の中で、「ありがとう。お疲れ様でした。」と心をこめてつぶやいた。

もう危ないかも。の一報をもらったとき、次の週、時間が取れる予定の日があったから、その日に会いに行こうと思っていたのに…。
もうやり取りもできない。
うなずいてくれるだけでも、まばたきしてくれるだけでもよかったのに。

二年前、偶然プログラム中の大会会場で会ったのが最後だった。
ほぼ20年ぶり。
まつたちが子供たちをあやしにロビーに出ていたとき、研究生と待ち合わせをしたのだけど会えないと困っていた。
子供たちを会わす事ができてよかった。「立派になったねぇ。」としげしげと上から下まで眺めてくれた、あの齢を重ねた顔が忘れられない。



親父さんと会うのは高校生以来。少ししょぼくれたけど、変わっていなかった。あの口の悪さも。

息子とその幼なじみたちと、今はもう動かない妻と、一緒にいてくれた。
昔話に花が咲き、少しは笑顔も見れた。
病院とのやり取りで、JWというだけでどれだけ冷たくあしらわれたか、切々と語った。
まつもこの一年、痛いほど経験している。

やがてポツリとこう言った。

「おれは、普通の家族を築きたかっただけなんだよ」

ただ…黙ってうなずくことだけしかできなかった。

子供たちを二人大学に行かせて、不自由なく暮らせるようにしてやりたかったのだ。
週末は家族と過ごし、なんと言うこともない、何気ない幸せでよかったんだと。

「ボク。ボク」と言っていた骨太だったヤツの妹もすらっとしてかわいい中学生のまま、まつの中では止まっているけど、もうすぐ四十になる。
成人するころ排斥になったと聞いたが、今も一人暮らしで、体調もよくないらしい。

結婚されてから一年ほどでお袋さんは研究を始めたそうだ。決して無理はしてないように見えたが。
こどもたちものびのびと育てているように見えて、うらやましいほどだったのだけど。

「おれは家族のためにがんばってきた。単身赴任までしてがんばったんだよ。」
ヤツたちは黙って聞いていた。
反応はどうだったかわからない。まつは顔が上げられなかったから。

たぶん彼らは「その想いは楽園で報われるんだよ」と思って聞いていたに違いない。

親父さんは、組織に奥さんと子供たちをとられたと言っているようにしか聞こえなかった。
信仰という強靭な意思の前に、親父の家族を思う想いは、さして重要視されるでもないエゴになってしまった。
別の道を歩んでいたとしても、今より幸せだったかどうか計り知れないが、家族へのあたたかい想いがふいにされ続けてきたことには変わりなく、少し猫背にとつとつと語る、めっきり小さくなった親父さんが気の毒でならない。


やがて腐れ縁の飲み友のご両親もいらした。
同年代の親御さんたちに、親父さんも心をほぐしたらしく、初めて涙を流しだした。
ゆうべ、帰り際、「じゃあな」と手を差し出すと、その手を力強く握り離さなかったのだと、そして手を離すとまた手を伸ばして握ってくるのだと。声が詰まって言葉にならなかったけど懸命に訴えるように語っていた。

まつの両親が会いに来て、楽しく話した様子を、ここ何年も見たこと無いくらいに喜んでいたとも言っていた。


そろそろおいとましようということになり、立ち上がり、皆、部屋を出る。
まつはみんなが、お袋さんに何も無く部屋を後にしようとするところを見逃さなかった。

それが悲しくてしょうがなかった。

まつは再び枕元に立ち、お別れを告げた。
相変わらず眉間にしわを寄せて、さっぱりと早口で「じゃあね」と言われた気がした。
いつもそうだった。




腐れ縁の飲み友との帰りの道中。
まつが交わらなくなったと聞いた彼は、まつと家族を心配していると熱心に語る。

「おれは、普通の家族を築きたかっただけなんだよ」

このフレーズがリフレインしているまつの耳に、彼の言葉はむなしく響き続けた。