山田耕筰 作るのではなく生む

後藤暢子 著

ミネルヴァ書房 発行

2014年8月10日 初版第1刷発行

 

本書では、作品・著作などの資料調査と現地調査に基づき、異文化圏の芸術受容の前衛という視座から、彼の創作行為、その苦悩と愉悦を再考する、とのことです。

 

はじめに

山田は1930年12月に名前の綴りを「耕作」から「耕筰」に改変している。

 

第一章 作曲家の原風景

 1 姉弟の自伝

 2 幼少年期の体験

 3 東京音楽学校時代

 

第二章 ベルリン留学―1910〜12年

 1 王立音楽院の内と外⑴

ドイツ語を習うのではない。「盗むのだ。略奪するのだ!」と山田は心に決める。街の看板を大きな声で読めば、通行人が立ち止まって発音を直してくれる。室内で新聞記事を読みあげれば、寄宿している家の家族との会話が生じる。ネクタイを買いに行った店で店員と対話する。カフェで喋る。公園を散策する恋人たちのあいだに割りこむ。無軌道な学習法だからベルリン訛りも覚えてしまう。まさに異言語との鮮烈な出会いである。

 

 2 王立音楽院の内と外⑵

 3 卒業作品〈交響曲 ヘ長調〉 

皇帝ヴィルヘルム2世が王立音楽院へ行幸された。山田も出迎えの列に身をおいていた。すると皇帝が不意に彼の前で足を止め、「中国人か、君は?」と問いかけた。この問いに山田は「日本人でございます、陛下!」と直ちに答え、率直に皇帝の言葉を正している。皇帝は「日本人と音楽。不思議だ!」と応じてドイツをどう思うかと重ねて問いかけ、山田が素晴らしいと答えると、しっかり勉強せよと言いおいて歩み去った。

 

王立音楽館で山田が副科のピアノを師事したハイネマン教授は温和な人格者ではなかったようである。彼は山田が宿題の作品を弾き始めると、たちまち怒鳴るか、窓辺に立って外を眺めながら葉巻を吸う。授業はごく短時間で終わり、山田が退出しようとすると、「おい一寸お待ち日本人!」と呼びとめて、次の達者な学生の授業を見学させる。「全く寂しくて、辛くて」という悲嘆の言葉が晩年の自伝にあらわれる。それは終生忘れがたい苦痛の時間であった。他方、音楽家の家系に生まれたハイネマン教授にしてみれば、ドイツ音楽の歴史と必然的に関わってきた楽器を異邦人が弾く姿に、言い表しがたい苛立ちを覚えずにいられなかったのだろう。

しかしどういう風の吹き回しか、ある日ハイネマン教授は山田に初めて専攻を問い、それならば書き上げた(交響曲)のスコアを持参するように指示した。翌週、教授は自らピアノに向い、山田のスコアを鍵盤の上で「綺麗に音にして」聴かせてくれた。以来、教授の「日本人」への偏見は消え去る。山田は、その後ハイネマンの自宅を訪ね、親しく歓談している。

 

 4 ディアハーゲン村にて

山田が夏期休暇を過ごした、ドイツ東寄り北端の漁村ディアハーゲン

 

 5 バート・ホンブルクへの旅

ドイツ系アメリカ人で、徹底した男性耽美論者である男とライン地方を旅行する山田

 

第三章 ベルリン留学―1913年

 1 シュトラウスの影

山田はリヒャルト・シュトラウスに弟子入りを志願するが断わられる。

 

 2 楽劇〈堕ちたる天女〉

 3 小山内薫との再会

 

第四章 日本初代の作曲家

 1 ベルリン・モスクワ・東京

ベルリンからモスクワへ、モスクワから東京への長い旅路は、山田にとって単なる地理的移動ではなかった。西と東を結ぶ線上に点在する3つの都市は、各々が異質な創造的トポスであり、旅はこれらを身をもって正確に布置する行動であった。モスクワは、西洋的な音楽アカデミズムの支配するベルリンと、独自の民族的伝統を有する母国の首都との中間に在り、必然的に両者を媒介する。

 

 2 創造への陣痛

 3 音楽と演劇と

 4 東京フィルハーモニー会管絃楽部

 

第五章 円熟を期して

 1 伝馬町での生活 

 2 詩的言語の導入

 3 渡米――放浪の旅

アメリカ、カーネギホールの第二回公演を資金的に援助したチャドボーン夫人は日本びいきで、1922年にパリ在住の画家藤田嗣治に自分の肖像画を描かせている。

 

 4 オーケストラの育成

 

第六章 詩人たちとの交遊

 1 露風と白秋

白秋の「かやの木山」

この詩では、屋外のかやの木山の風景と、山家の囲炉裏端の様子が描かれる。日暮れどきの囲炉裏端には、老女と孫の姿がある。もし音読された場合には、薄暗い、囲炉裏火に燻された山家の印象が濁音の多用によって聴覚に訴えかけてくる。作曲家がこれに気付かないはずはない。

 

白秋の「城ヶ島の雨」

日本語の5つの母音のうち「う」音の多用が際立っている。白秋は、くぐもった「う」音を生かすことによって、薄明かり、濡れたもの、音もなく滑り行くものを表現しようとした。「ふるふる」 「ゆくゆく」「うす曇る」など、「う」音の連続的な使用も見られる。

山田は敏感に詩情を感受している。いわゆる標準語では、日常会話でも詩文の朗読においても「う」の母音がしばしば無意識のうちに削ぎ落とされる。山田が昭和初期に録音した『歌のうたひ方講座』(コロムビア)を聴いてみると、彼は自分で発音しながらこの「う」音の特異性を強調している。その特殊な「う」音を、穏やかなテンポで作曲すればたっぷり響かせることのできる詩は、作曲家の歌心を刺激せずにはいられなかった。

 

1922年の夏に連作歌曲〈AIYANの歌〉と〈風に寄せてうたへる春の歌〉をアルスから出版した際に、山田は初めての試みとして、歌詞を仮名文字とローマ字で併せて記譜した。明らかに日本語の発音への細やかな心遣いである。

 

日本語のラ行の五音は「r」でもなく「l」でもない。 全く日本独特の音である。私は仮に羅馬綴にrを用ひてはをるが、それはdとlの相寄り響く音であらうと思ふ。即ち舌をdの位置に軽くあてて L を発音すればいいのである。

 

 2 童心の歌を求めて

 3 声の技巧

 4 融合芸術論

 

第七章 時勢の波間で

 1 フランスからソヴィエト連邦への旅

山田はパリで、アヴィニョン街に暮らすジャン・コクトーの自宅を訪ねて歓談する機会に恵まれた。人怖じせず話し上手な山田は、その頃阿片を常用していたいささか風変わりなコクトーと3時間も話し込み、お互いに退屈しない時間を過ごしたようである。

 

モスクワ音楽院では27歳の若いショスタコーヴィチに出会っている。 山田は「現ソヴィエトの有する天才的作曲者」と評し、彼の音楽について 「それは過去の芸術の特性とも言うべき現世を否定する、ペシミスティックな心の表現でなく、生活そのものを朗らかに肯定するオプティミスティックな心の表現であるかの如くに見える、新しい傾向であります」 と語っている。

 

 2 音楽思想の転換

山田の総作品数は1600曲余り、そのうちのおよそ510曲、すなわち1/3が団体歌である。作品数が多いだけではない。委嘱先を調べてみると北海道から沖縄までほとんどの都道府県を網羅している。当時日本の治政下にあった樺太、朝鮮、台湾、満州国などの歌もある。彼が1曲も校歌や県歌・市町村歌を作曲していないのは高知県だけである。このことには何か理由があったわけではなく、偶々そうなったというにすぎない。

 

国内に山田耕筰ほど多量の文章を残した作曲家はいないだろう。これは各巻600頁、全3巻の『山田耕筰著作全集』を編纂しながら、驚きを持って実感したことである。



 3 劇場音楽への見果てぬ夢

 4 第二次世界大戦中の活動

 5 晩年の生活