(1987年発行のラジオ・タシケントのベリカード)
第6章 ソ連時代のコミュニティ観 マハッラの事例から
マハッラ
ウズベキスタンの近隣コミュニティ
ソ連時代以前から現在のウズベキスタンがある領域に存在した都市における行政単位
各マハッラはアクサカル(直訳は「白い髭」)と呼ばれるリーダーによって運営されており、そのアクサカルは、住民により選出された後、都市の支配者からマハッラ長に任命された。
ソビエト政権によるマハッラ政策は、植民地宗主国が植民地で社会の伝統的な仕組みの中から自国の目的を達成できる仕組みのみを維持させるという指摘と一致している。ソビエト政権は、二重政策を実行するために長老や住民のみならず学者や知識人を参加させ、マハッラをソビエト社会主義政府のイデオロギーのために利用としようとした。
ソビエト政権は行政を行うために、各地にソビエト議会を設け、その決議を実行するために執行委員会を設けた。マハッラは、そのような都市の地区執行委員会の管轄のもとに置かれた。
証言: 何よりもマハッラの力はその教育にあると思う。お年寄りへの尊敬やお互いに対する思いやりを育てるのはとても難しいことだから、小さい頃からそのようなことを家庭とマハッラで教えるのに私は大賛成だ。今でもメトロやバスなどに乗ると若い人が席を譲ってくれる。
ソ連時代のマハッラの非公式で人々の伝統的なつながりに基づいていたものに対して、現在のウズベキスタンではマハッラの「公式化」が着実に進んでいる。これを推進する政府の狙いは、行政機能の不足を補うためにマハッラを組織化し、様々な課題を住民レベルで解決することである。
第7章 宗教と社会
証言: 祖父は当時のコルホーズ(集団農園)事務所で警備員をしていた。夜中にコルホーズ内の事務所に泊まり込み、朝になると家に帰るシフト制だった。彼は、仕事場でもお祈りをするようにしていた。お祈りの場所として事務所の前に建てられた大理石のレーニン像の下を選んだ。その理由は、像の下がいつも清潔でキラキラと光っていたからだそうで、毎朝お祈りを欠かせなかった。
ある日、コルホーズの農園長と共産党組織長が早めに出勤すると、事務所の窓から祖父がレーニンに向かってお祈りをしているところを目撃した。2人は走ってきて、大声で「お前は何をしているんだ!なぜレーニンの足元でお祈りしているんだ」と叫び、「レーニンは無宗教者で、無神論国家を創った偉大なる人物だ。ここはお祈りするような場所じゃない」と祖父を追い払おうとした。
そこで祖父は「お祈りとは一番清潔で綺麗な場所でするものです。私たちの事務所周辺ではここしかありません!」と、レーニン像の足元を指した。そうするとコルホーズ長と共産党組織長は返答に困り、祖父に二度とそのような行為をしないように注意しただけで許したらしい。これも当時の矛盾だらけの社会の様相だといえるだろう。
共産党員は公式には宗教に対する愛着を表明しなかったが、宗教の役割は認識でしたようである。隠れて宗教儀礼を行っていた例も少なくない。このような矛盾する状態がソ連時代のウズベキスタンに出来上がった理由は
・宗教はこの地域で歴史的に根付いていたこと
・人々が伝統の一部を構成したこと
・無神論教育が人々にそれほどの希望を与えることができなかったこと
・何か良くないことが起きた時には宗教が最後の頼りになったこと
複数の妻を持つ理由は田舎に男性が少ないことから、女性が結婚して子供を産むためには同じ村の妻子持ちの男性と結婚するよりは他に方法がないからであった。
第8章 ソビエト国民の諸相:民族と言語
しだいに各共和国には、その共和国の主要民族の言語で教える学校(一般的に「民族学校」という)と、そうでない学校(ロシア語学校)が現れた。民族学校の中でも学年によりロシア語クラスと現地語クラスに分けられた。どちらかの学校で子供を学ばせるのかは親が決めたが、大半はロシア語学校を選んだ。当時の制度は、ロシア語がわからないと良いキャリアが手に入れられなかったため、わが子により良い将来を願う親は皆そうしていた。それに加えて、ロシア語学校ではモスクワや、レニングラード、その他のロシアの大学で教育を受けた人が教壇に立っていたので、教育レベルは民族学校より高かった。
ルシー
ソ連時代に共産党やソ連政府の教育やイデオロギー、人事などの政策により、ロシア語・ロシア文化を極端に美化し、日常生活や仕事場で母語であるウズベク語を避け、ロシア語のみで話そう(書こう)としたウズベク人や非ロシア人のこと。少なくなかった。
人事面以外のことでウズベク人の反感を買ったのは、例えば、圧倒的な数の町の通りにロシア人かスラブ系もしくは非ウズベク人の名前が名付けられたことである。彼らはそれをロシア化政策の一環とみなし、それこそがウズベク語やウズベク文化に対する脅威ととらえた。
タシケント大地震はウズベキスタンの歴史の中でも衝撃的なものであると同時に、その社会の将来を決定づける出来事となった。タシケント大地震は1966年4月26日に起き、震度8以上だったと言われる。
壊れた建物の解体は重機が足りず戦車も使われた。戦車を建物にぶつけて壊していた。
第9章 独立後に現れたノスタルジー
独立後の公式な『ウズベキスタン史』はソ連時代をそれほど評価せず、むしろソビエト政権は ウズベキスタン国民の言語、宗教、文化といった独自性や自由を奪ったと描いている。
証言者が語るのは、ソ連時代には失業者がなく、ホームレスの人も存在しなかったことである。また、現代社会が直面しているテロや民族間の緊張もほとんどなく、皆お互いに純粋な気持ちで接していたという。さらに、国家の構成に関しても、現在欧州連合がようやくできたが、その構造はソ連の中ですでに実現されていたもので、欧州連合ができる70年前にソ連ではその段階に達していたという。
(ソ連をEUの先駆者と見なしているという考え方が興味深い)
ソ連時代が多くの人にとって魅力的に見えるもう一つの理由は、ソ連という国が独裁的で共産党の圧倒的な支配下にあったにもかかわらず、今のウズベキスタンより自由な雰囲気であったという国民の認識からである。
また何に怯えることもなく、家に鍵をかけて生活することはほとんどなく、夜遅くまで出かけていても帰り道を不安に思うことはなかった。それだけ社会全体が安定しており、それが人々に安心感を与えていたという。
証言者の多くが強調するのは、ソ連時代の歴史が非常に前向きなものであったという点だ。貧しい社会が少しずつ良くなっていく様を歴史の教科書から学ぶのではなく、身をもって経験したのである。
証言: 経済が安定してくると、皆が生活や仕事に関して楽観的になりすぎ、50年間も遊んで、(戦争での)勝者としての立場を楽しんだ。あらゆる場で私たちは勝者であると発言し、他の国を見下してきた。その結果、世界がどんどん発展して、私たちは追い越されてしまったのだ。私たちは楽観的になりすぎて、ウォッカを飲んで踊り楽しんでいたのだから、これは当然だ。
証言: 当時「ポド・プリラフカ(売り場の裏)」という現象が起きていた。これは良い服は売り場を通してではなく、一般の客の目に触れないところに隠しておき、高い値段でも出してくれそうな客が来た時に店員が密かにその商品を見せて、値札以上の金額で売りつけることだ。上乗せ分は店員が手にして、レジには値札の金額だけが入る。そんなことがよくあった。
ソ連時代のウズベキスタンは他の世界から孤立したイメージがある。確かに、国民の大半はソ連以外の国へ旅行する機会がなく、ウズベキスタン国内かソ連各地を巡っていた。海外に出ることを許される人は少なく、その人たちも資本主義国ではなく、社会主義国に出かけることだけが許されていた。その政策の主な目的は「腐敗とモラルの低下を引き起こす欧米文化」がソビエト国民を直撃しないようにするためだった。そのため、海外に行く人は必ずそのモラルや考え方に関して面談を受け、海外へ出すことに相応しい人物なのか評価され、判断が下された。
記憶は特別な注意を要するものである。過去を過剰に美化し過去にノスタルジーを感じながら生きることは今の自分を否定することになるように、過去を拒否し、今の自分を過去から切り離して生きることは社会が独自性を失うことにつながる。
おわりに
ソ連の中でもっとも不満だったこと
・宗教の自由が制限された
・民族の伝統の自由が制限された
・政治的参加の自由がなかった
