第7章 憂鬱なコーカサス
アゼルバイジャンは、かつて、旧ソ連を構成するエリアだったが 、従属するにはかなりの無理があった。長くソ連への抵抗運動が続いていた。ソ連でゴルバチョフが政権の座につき、ペレストロイカの流れが確実になっていく1989年、ソ連を構成したエリアの中で真っ先に共和国主権宣言を発表する。これに対してゴルバチョフはソ連軍を投入する。バクーの街に、ソ連軍の戦車や装甲車が侵攻していく。今でも中心街の石造りの建物には弾痕が残っているといわれる。しかし、ソ連軍の激しい抵抗に遭い、1991年、アゼルバイジャンは独立を果たすのだ。
やはり民族、言葉、習慣、発想…と、およそ全てが、ソ連とは違っていたのだ。今日から独立です…といわれた中央アジア諸国とは、独立の意味が違っていた。
1994年、アゼルバイジャンは欧米の石油企業との間に協定を結ぶのだ。それを機に、オイルマネーが一気に流れ込むようになった。
僕が初めてアゼルバイジャンを訪れたのは、協定から3年が経った頃だった。すでに欧米資本は次々とアゼルバイジャンに入りはじめていた気がする。しかしその資金が、街並みを変えるほどには育っていなかった。
しかしバクーの街は、その後の13年で、怖いほどに変わってしまった。
旧市街を抜け、政府庁舎の方向に進んでいくと、ビルの谷間に迷い込む。ちょうど昼時だった。スーツ姿のビジネスマンたちが、ビルの1階から次々に出てきた。欧米人の姿も目立つ。
アゼルバイジャンとトルコ。両国の民族は、兄弟にたてえられるほど近い。言葉も似ている。意思の疎通は簡単だという。食べ物も似ているはずだった。
しかしアゼルバイジャンとトルコは国境を接していない。間にはアルメニアがあった。トルコ系のイスラム国家の間に、アルメニア正教というキリスト教国が挟まれている。そしてアゼルバイジャンとトルコは、時に共闘を組んでアルメニアと対峙してきた。
アゼルバイジャンとグルジア(ジョージア)の国境で、ようやく普通の国境に僕らは戻ってきたようだった。
ロシアからアゼルバイジャンに入り、その自由な空気に足取りが軽くなった。しかしアゼルバイジャンはイスラムの国である。そこから一晩、列車に揺られたグルジアは、キリスト教の国だった。もう意識は西に向いているのだろうか。滑らかな英語は、確実にヨーロッパに近づいていることを教えてくれた。
列車や乗客は、職員の都合に合わせなくてはならないという発想である。アルメニアの入国審査所で、その世界に再び戻されてしまった。
アルメニアとトルコの国交断絶は、1993年に遡る。直接の原因は、ナゴルノ・カラバフ地方の紛争だった。
トルコとアルメニアの間には、第一次世界大戦時代に遡る軋轢もあった。アルメニア側が150万人もの自国民が犠牲になったと主張する虐殺問題だった。
結局アルメニアからトビリシに車で戻った。
僕らは一旦帰国した。それから2ヶ月後トビリシの空港に着いた。
トビリシからはトルコ国境のヴァレまで列車で行くつもりだったが、 2ヶ月前に乗客が少ないために運行休止になっていた。
結局、現地のグルジア人の助けにより、バスや運転手付きの車で、トルコ領内の国境の町カルスに着いた。
第8章 ヨーロッパ特急
トビリシのスーパーでは、アゼルバイジャンまで、それが片隅であっても、必ずあったカップ麺が、スーパーの棚から忽然と消えたのだ。
グルジアからトルコへ。そこがひとつの境界だった。車両も変わり、乗客と車掌の関係も密度が薄まった。アゼルバイジャンやグルジアの列車で、その予感はあったが、トルコに入って、確かなものになった。列車が特別な乗り物ではなくなったのだろう。
ブルガリアは2007年にEUに加盟したというのに、その入国審査には社会主義時代のしきたりがしっかり残っていた。審査官がコンパートメントに現れ、パスポートを回収していく。その威圧感のある表情や身のこなしは、古い時代のままだった。
ソフィアからの列車が着き、ベオグラードをはじめて眺めた時、街の格が違うと思った。石造りの建物は重厚で、長い歴史が秘められているように映った。しかしその歴史とは、この街に限れば戦争だった。建物には多くの弾痕が残されているはずだ。
TGVはフランスのストライキの影響をあまり受けていなかった。収益の多い列車の運行は何とか維持していた。
駅舎を出、石段を下るとマルセイユの街だった。しかし、目に飛び込んできたのは、道端にうず高く積まれたゴミの山だった。
後にわかったことだが、これも年金削減に反対する公務員のストライキだった。
ボルドー駅のレストランで見た、ワインボトルの下4分の1ぐらいがガラスになっている、上げ底のボトル。
秋の日を浴びたリスボンは、気持ちのいい街だった。フランスでは妙にやさぐれた感じが目立つ黒人たちが、普通に街に溶け込み、その目も輝いていた。
最西端はカスカイス駅だと思っていたが、実はもう一つの説があった。リスボン市内から路面電車が西に向かって走っていた。その終点がシントラ駅なのだが、そこから大西洋のマサス海岸まで路面電車が延長され、週末に限って観光電車として運行されるのだという。そのマサス海岸の駅が最西端ではないか…と。
あとがき
最東端の駅はワニノ駅と、ソヴィエツカヤ・ガヴァニ市駅では距離にして800mほどソヴィエツカヤ・ガヴァニ市駅が東に位置していた。
一般的な長距離列車の旅を考えれば、東端はワニノ駅だった。しかしローカルな支線も含めると、東端駅はソヴィエツカヤ・ガヴァニ市駅である。
ユーラシア大陸を西に向かって走る列車のほとんどは、時速40km程度でとことこと進んでいた。途中、日本に戻ったこともあったが、7月に列車に乗り込み、様々な列車を乗り継ぎ、延べ19か国を通過し、ポルトガルの大西洋に面した駅に着いた時は、10月の下旬になっていた。
寝台車の狭いベッドに揺られながら眠った夜は26晩にもなってしまった。
