世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ

下川裕治 著

新潮文庫

平成24年6月5日 5刷

 

2010年の7月から10月まで、ほぼ列車を乗り継いで、ユーラシア大陸の最東端から最西端までの旅行記です。

シベリア鉄道を使えば、もう少し楽な道のりだったと思いますが、中国から中央アジア、そしてコーカサスというあえて大変なルートを選んでおられました。

 

第1章 サハリンから間宮海峡を渡る

ユーラシア大陸の最東端の駅、ワニノ駅の宿泊施設に泊まる。

 

2009年10月に黒海の南にあるトルコとその東隣のアルメニアの間で、国交が樹立した。国境は開かれ、かつて運行されていた国際列車も再開されることが決まった。

しかし国交問題は隘賂に入ってしまった。

アルメニアとトルコの間に線路はあるのだが、1993年以来、国境は閉ざされ、国際列車の運行も停まったままだった。

 

ロシアのバイカル湖あたりから、シベリア鉄道に寄り添うように走るもう一つの鉄道があった。バイカル・アムール鉄道というらしい。シベリア鉄道は、ハバロフスクからウラジオストクに向かうのだが、バイカル・アムール鉄道は、さらに東に向かって延びていた。終着駅はソヴィエツカヤ・カヴァニという街だった。タタール海峡、日本名で間宮海峡を挟んで、サハリンの対岸にある。

 

成田からサハリンのユジノサハリンスクまでは2時間ほどのフライトだった。

空港からガイドの運転で、90キロほど離れた港町、ホルムスク(真岡)に向かう。

ユジノサハリンスクの空港から市内に入る道を進みながら、僕はしきりと首を傾げていたのだ。ロシアの街並みとも違う。かつて豊原と呼ばれた日本時代の匂いなどとどこにもない。アメリカ西海岸のような街並みが続いたのだ。

ホルムスクのホテルチャイカ(カモメホテル)に泊まる。

 

僕らはサハリンのユジノサハリンスクから5日かかってウラジオストクにたどり着いたのだが、ユジノサハリンスクの空港から飛行機に乗れば、1時間ほどのフライトでウラジオストクに着くはずである。

 

ロシアに来るたび思うことだった。とくにアジアと比べると、食事をする場所が圧倒的に少ない。

 

ワニノから日本で手配してもらった車で向かったソヴィエツカヤ・ガヴァニ操車場駅は、丸太を組んだ小さな駅 だった。

 

(間宮海峡に面したワニノ駅)

 

第2章 シベリアのおばさん車掌

まるで心を入れ替えたような走りだった。ハバロフスクを定刻に発車した列車は、舞台にのぼった役者のように背筋を伸ばし、軽快に走りだした。小さな駅は通過した。

 

ロシア極東と中国のハルビンを結ぶ国際列車は、2つの路線がある。一つはウラジオストクとハルビン、そしてもう一つがハバロフスクとハルビンである。それぞれウラジオストクとハバロフスクを出発した列車は、ウスリースクで連結され、ハルビンに向かった。かつては利用客も多く、独自の運行スケジュールを組んでいたのだろうが、徐々に乗客が減り、それぞれ一両を残すだけになっていた。そのため、どちらも別の目的地に向かう列車につないでウスリースクまで運ぶことになる。その接続の関係で、僕らが乗ったウラジオストク発がウスリースクで一晩停車になってしまった…。

 

国境駅グロデコボでも台車の交換やその他の事情で5時間待たされる。

 

第3章 中国は甘くない

駅前から続く綏芬河の街は、もうどうしようもなく中国だった。この街のどこからもロシアの匂いは漂ってこなかった。

国境の街というものは、少なからず隣国の影響を受けるものである。駅から続く道を思い返してみる。そう、ひとつだけ、ロシアがあった。ロシア正教会風の教会。それだけである。あとは中国一色なのだ。中国という国の、とんでもないエネルギーが、国境ぎりぎりまで迫っているのだ。

 

綏芬河の駅では、混乱を防ぐために、発車15分前にならないと、乗客をホームに入れないのだ。そして保安上の問題から、荷物は全てX線のセキュリティチェックを受けなければならなかった。ところが僕らは、トラックの出入口から入ってしまった。それがいけなかったようだ。

 

ハルビンの中心街の一つでもある中央大街に行ってみることにした。橋を渡り始めるとすぐ、そのマークは見つかった。車輪の周りに天使の羽根のようなものがあしらわれた子供っぽいデザイン。東清鉄道のロゴだった。東清鉄道はハルビンを通る鉄道を敷いたロシアの鉄道会社だった。昔はいたるところに、このロゴマークが掲げられていたのかもしれないが、今はこの陸橋の欄干に残っている程度らしい。

 

大連、瀋陽、といった街を歩くと、駅前から1本の道が延び、その先にロータリーが現れる。道はそのロータリーから放射線状に広がっていく。モスクワの街と同じつくりである。それはここが東清鉄道の付属地だった証なのだ。ロシアは鉄道に沿ってリトルモスクワを次々に建設していったわけだ。

 

第4章 ダフ屋切符で中国横断

北京に到着した僕らは、一旦帰国した。この先、訪ねていく国のビザを取るためでもあったのだが、北京から先のウルムチに向かう列車がとんでもなく混んでいたことも理由の一つだった。

それから1ヶ月ほど経った8月の中旬、北京に戻る。

 

ダフ屋というのは、自分で事前に切符を買い、欲しい客に高値で売る奴らだと思っていた。知人によると、そのスタイルのダフ屋は小物で、希望の切符が手に入らないことも多いのだという。大物のダフ屋というのは、駅の窓口職員と通じている場合が多い。時に職員本人がダフ屋ということもあるらしい。職員は発売と同時に、乗客が多そうな列車を一気に押さえてしまう。そこは資本力がものを言う世界で、確実な儲けが期待できればより多くの切符を押さえることができる。つまりは列車の切符を媒介にした投機ビジネスなのだ。

 

ウルムチ滞在中、アジア大陸の中心という場所に行ってみた。

入口で1人30元もの入場料を取られたが、肩透かしを食らったような観光地だった。仰々しくはつくってあるが、つまりは地理上のポイントにすぎない。アジア大陸の海岸線は様々な形に入り組んでいる。どうやって中心を割り出したのかもよくわからない。

アジア大陸中心には立派なモニュメントが建っていた。その周りを石碑が囲む。そこには国ごとの説明や国旗の由来が書き込まれたパネルが貼られていた。