(ラペルーズ航海図)

 

第三章(原著十八章)

ダッタン海峡を北上し、サハリン(樺太)が島であることを確認 水深が浅く軍艦の通行が不可能であるため南へ引き返す

結局、我々が彼らの地域並びに満州の輪郭を描かせることを望んでいる旨を理解させることができた。一人の老人が立ち上がり、槍の先端で西の方角に北から南に走るダッタン大陸の沿岸の線を引いた。これと向かい合って東方に同じく南北に線を描いて、彼らの島であることを自らの胸に手をあてて我々に示した。

そしてこの島とダッタン大陸との間には海峡が残されてあり、彼らは海上にみえる我々の軍艦の方を振り向き、その海峡が通過できることを線で示した。また、この島の南方に別の輪郭を描き、そこにも海峡があって、我々の軍艦が通行できる航路があることを表した。

 

本艦に乗っている中国人はこの島民の言葉を一言も聞き取れない。しかしこの中国人は、大陸から魚の買い入れに、15日から20日前にここに来た、2人の満州ダッタン人の言葉は完全に理解した。

我々はこのダッタン人に午後わずかな時間面談したにすぎないが、彼らはダッタン語をよく知っている中国人の一人と、声を弾ませて話し合っていた。おそらく両者の言語には独自な地名があるので、同じ地名を使っていなくても、ダッタン人らは中国人にこの国土の同様な地理を正確に説明したのである。

 

アジアのこの地方の沿岸は北緯42度より、すなわち朝鮮国境よりサガリン川(アムール川)まで住民は非常に少ないこと。この沿岸地方は山脈が人の侵入を阻止し、ダッタン大陸の他の地域より孤立させられていること。そして我々が実見した範囲はすこぶる狭いものであったが、そこへの交通は海上を行く船、及び河川をさかのぼって行われたこと。

 

7月26日。夕方、ダッタン沿岸に停泊した(この日ラペルーズは、この海峡の航海の最北端、北緯51度44分に達した。『ラペルーズ世界周航記』ブソール号航程表による)。

 

7月27日、我々は付近の水深を調査するためにボートを降ろした。帰艦時の困難に備えて特別な安全対策のもとに、ブウタン氏を南東方面に、ヴォージャ氏を北方に派遣した。

海はますます荒れ、風は強くなり、本艦の安全のためにいつ出帆するかもしれないので、この計画には特に慎重な士官を選任した。

いかなる理由にせよ、我々がボートの帰還を待つ間に、また艦の出帆を余儀なくされた時に、艦を危険にさらすことのないよう士官に命じた。私の命令は正確に実施され、ブウタン氏は間もなく帰艦した。ヴォージャ氏は北方に3海里進み6尋の水深を発見した。しかし 天候と海上の状況は、彼にこれ以上の測深を許さなかった。

ヴォージャ氏は夕方7時に出発し、真夜中まで帰艦しなかった。その間海上は大時化となり、我々はアラスカのフランス人泊地で体験した不幸な出来事を想い出して、激しい不安に陥った。

 

第四章(原著第十九章)

ダッタン大陸東沿岸の探査と住民との接触

1787年7月29日。サハリン島(樺太島)の北方に向けてこの海峡を通過することが不可能と判明したので、我々に新しい事態が発生した。それは今夏にカムチャツカ半島に到着することが非常に疑わしくなったことである。

デカストリー湾で5日間停泊。

 

第五章(原著二十章)

宗谷海峡をヨーロッパ人として初めて通過 千島を経てカムチャツカ半島へ向かう

8月2日。予告とおり湾内の西微風を利用して出帆。

 

沿岸に沿って6海里沖合を南下した。そしてサハリン島より南西の方向に、18海里隔てた海上に浮かぶ平坦な小島を発見した。私はこの島を、今回の遠征に参加した主席技師の名を取りモネロン島と命名した。

(注 サハリン島南部西海岸沖の間宮海峡入口にある小島。日本領時代は海馬島といった。1983年9月1日、大韓航空機がソ連軍により、本島付近において撃墜されたので、その島名がクローズアップされた)

 

この南端の岬を私はクリヨン岬と命名した。サハリン島はここで終わっており、南北に伸びる地球上で最も細長い島の一つである。

 

サハリン島の西海岸では一頭の鯨も見ないのに、東海岸では鯨類が豊富なのは注目に値する。

この島の住民が、我々が大陸で見た住民と、たとえ砂の堆積と海草で塞がれたわずか9-12海里の海峡によってしか隔てられていないにしても、全くの異人種であることに疑問の余地はない。しかし、いずれの住民も同じ生活様式をもち、狩猟と特に漁業で食料品の大部分を得ている。

サハリン島民の体格は日本人、中国人、そして満州ダッタン人より優秀である。顔立ちは端正でヨーロッパ人に類似している。

 

サハリン島はシシャ(北海道)とわずか36海里の海峡(注 約66キロだが、宗谷岬とクリヨン岬の間は43.15キロ)によって隔てられているにすぎないので、この海峡沿岸の住民は、北方の同胞よりも日本の物品を入手しやすかった。一方、北方の同胞はサガリン川(アムール川)や満州ダッタンの人々に近く、彼らに取引の商品の鯨油を販売した。

 

カストリカム号の航海で名づけたアッケイス部落の北部にいることに気づいた。我々はやっとエゾ(北海道)と奥エゾ(サハリン島)を隔てる海峡を横断し、オランダ人が停泊したアッケイス沖の近くに至ったのである。

(注 アッケイス部落は厚岸。 北海道東海岸厚岸湾にのぞむ部落。1643年8月、オランダ船カストリカム号の乗組員が上陸している。ラペルーズの航路は遥か北方のオホーツク海にあっても、アッケイスは当時のヨーロッパ人に知られたエゾの数少ない部落であるから、この表現は無理からぬことであろう)

この海峡は濃霧に閉ざされてオランダ人には見ることができなかった。そこで彼らはサハリン島と北海道の山々は低山地で連なってると思い、この見解によって我々が航行したその場所を連続した海岸として描いている。この誤りを除くと、彼らの航海の詳細はかなり正確である。

 

9月7日午後2時、ペトロパヴロフスクの所在するアヴァチャ湾に入港した。