(ラペルーズの航海ルート)
第一章(原著第十六章) フィリピンより日本海へ
1786年7月3日、小湾を発見し、これをフランス人泊地(アラスカ西海岸南部の海岸)と命名した。ラペルーズはこの小湾の岸辺にラッコ等の海獣の毛皮を捕獲する基地の建設を計画した。この湾に停泊中の7月13日、湾内の水深測定のため3隻の短艇を派遣した。
午前7時頃、引潮時に、狭い湾口に殺到する激流に流され、一隻は艦長の沈着な操舵により危機を脱したが、他の2隻は速い潮流にのまれ、これに乗り込んだ2隻のフリゲート艦の士官6名、下士官と水兵15名が行方不明となった。結局、全乗組員の約10%に相当する21名を失う大惨事となった。
7月30日、ラペルーズは観測用の小島に記念碑を建て、その前の地中に次の告別の言葉を封入した瓶を埋めた。
この湾口に21人の勇敢なフランス海軍軍人が眠る。友よ、ともに涙を流し給え。
我々は時間の徒費はできなかった。それは嵐と暴風雨により日本海が、世界で最も危険な海域になる時期、すなわち6月以前にこの海域より脱出することが我々には重大事であったからである。
イエズス会士は十分な注意を払い、陸上からの調査に基づいて日本と朝鮮の地図を訂正しており、また北京で行われた優れた経度の観測によっているので、あまり重大な誤りはなかった。
そして我々は次のことを認めなければならない。これらイエズス会士は、アジアのこの地域の地理学上必要かくことのできない貢献を行い、我々は彼らによってのみ、この地方の地理を教えられ、そして真実にほぼ近い地図の提供を受けていることである。航海家の唯一の希望は、イエズス会士が陸上からの調査では不可能であった詳細な水路図の作製であった。
5月25日、夜間、朝鮮海峡を通過した。日没後、東微北から東南東にのびる日本の沿岸と、北西から北にのびる朝鮮の方位を測定した。(注 ラペルーズは1787年5月25日対馬と朝鮮半島の間を航海していた)
我々が朝鮮沿岸に不安をまき起こしたのであろう。午後はいたるところに狼煙が上がるのが見えた。
第ニ章(原著第十七章) 日本の北方の地理学上の空白海域に向かう
6月2日、我々は2隻の日本船を発見した。その中の一隻は至近距離を通過した。この船には20人の乗組員が乗船しており、全員がヨーロッパの聖職者の法衣に似たものを着ていた。
我々は日本人の顔が観察できるほど近くを通過したが、その表情には恐怖も、驚きも表れていなかった。その船はアストロラブ号の近くにきて衝突をおそれ、初めて進路を転じた。彼らは白地に垂直に字を書いた日本式の旗を立てていた。そして船名がこの旗竿のそばに置かれた円筒状の物に記入してあった。
アストロラブ号はすれ違いながら呼びかけたが、我々の問いは彼らの理解をえられず、彼らの答弁も我々にはわからなかった。日本船は南方に航海を続けた。これまで1隻のヨーロッパ船も訪れたことのない海で2隻の外国船に出会ったのであるから、それを急報するために、彼らは南に向かったのである。
昼間、間隔をおいて7隻の中国船を認めた。(注 この当時、日本海の本土沿岸を中国船が航行したとは考えられない。ある種の北前船を誤認したのか)
6月6日、我々は15海里の会場の彼方に能登半島とジョーチシマを発見した。
(注 ジョーチシマ。この付近にある舳倉島の位置)
島の周囲は6海里と推定されたが、多数の住民がいる様子であった。我々は建物の中の大邸宅に注目した。そして島の南西の岬にある城郭のような構築物のそばに、ヨーロッパの絞首台というより、数本の支柱の上に大きな梁が横たわってるのを発見した。おそらくこの支柱は他の目的のものだろう。我々と大きく異なる日本の習慣が、このことのみ類似しているとすれば、多分に奇妙なことだからである。
(注 数本の支柱。ラペルーズは日本の鳥居を見たのではあるまいか)
ダッタン大陸の沿岸の近くを航海した。6月16日には出発以来経験したことのない、最も完全な幻影について日記に記録することになった。
夕方4時、濃霧の後いっとき晴天となり西微南より北微東にのびている大陸を発見した。
その後間もなく南方に、その西の端は前記ダッタン大陸と接続する広大な陸地が現れた。この陸地とダッタン大陸の開きは15度もなかった。そして我々は山脈、峡谷など細部まで識別できた。テッソイ海峡の調査を断念したにもかかわらず、他ならぬこの海峡に我々がなぜ迷い込んだのか理解できなかった。
こうした状況の中で、私は船首を風上に向け、南南東に舵をとった。まもなく山も谷も消え去った。今までに私が見た最も異状な霧峰が錯覚を引き起こしたのである。すべては消え、形も色彩も上昇して雲間に見えなくなった。そして輝く太陽のおかげで、この幻の陸地が存在するのではという疑問は拭い去られたのである。
(蜃気楼なのでしょうか?)
山頂が全くテーブル型の山を発見したので、航行家の記憶のためにテーブル山と命名した。
我々がこの海峡を巡行して以来、人間の気配を全くなく、海岸を離れる一隻の小舟も見なかった。
この地域は肥沃な土地を示す立派な森林に覆われているが、ダッタン人と日本人には無視されているようだ。この地にこれらの国民は素晴らしい植民地を建設できるであろうに、日本の政策は全ての移民を禁じ、外国人とのいかなる交流をも許していないのである。彼らは中国人もヨーロッパ人と同様の外国人と考えている。
