海峡の向こうの隣人たち
稚内市役所からサハリンへ、駐在員の軌跡
三谷将 著
花伝社 発行
2026年4月25日 初版第1刷発行
著者は、2013年、稚内市役所の中にあるサハリン課に配属され、 仕事としてサハリンと直接関わる機会を得、 2019年にはサハリン事務所長としてユジノサハリンスクに赴任し、 ロシア人と共に日常を送りました。
本書はサハリンの人々の姿を綴ったエッセイであるとともに、稚内とサハリンという国境を越える現場からの、中身の濃い、迫真のドキュメントでもあります。
新刊書ですので、ブログに書く量は極力減らそうと思ったのですが、それでもこれだけの量になってしまいました。
第一章 隣街サハリン 稚内から見た風景
稚内市は「日本の北端」に位置する街である。かつては「日本最北端」とも称されたが、より北にある択捉島を念頭に置き、昨今は「北海道本土の最北端」と表現されることが多い。
稚内市の宗谷岬、平和公園の一角に、18世紀のフランス航海家ラペルーズ(1741年~1788年?) を顕彰する記念碑が建つ。彼はフランス国王ルイ16世の命を受け世界周航を行い、 1787年に宗谷海峡を「西洋人」として初めて通過したとされる。この偉業にちなみ、宗谷海峡は国際的に「ラペルーズ海峡」と呼ばれている。平和公園の丘には日露戦争当時、ロシア軍艦を監視するため旧日本海軍が建てた望楼が残り、1983年の大韓航空機撃墜事件の犠牲者を追悼する慰霊碑・祈りの塔も建立されている。
ラペルーズがこの海峡を通過してから220年目にあたる2007年、稚内市では駐日フランス大使やラペルーズの子孫らを招き、顕彰記念碑の建立式典が行われた。これを機に、著者は彼の出身地アルビ市のラペルーズ協会や子孫たちと交流を持つようになった。
1787年、彼は日本海を北上してサハリン西岸に上陸し、地元アイヌの人々と歓談する中で、サハリンが大陸から突き出た半島ではなく、島であることを知らされたという。その後、サハリンと北海道を隔てる宗谷海峡を横断し、カムチャッカへ向かった。
1796年には、イギリス人探検家ウィリアム・ブロートンが北海道周辺の海峡を調査したが、樺太西岸の浅瀬の状況などから、サハリンを大陸から突き出た半島であると判断した。
稚内を訪れるロシア人の「上陸」には2つのパターンがあった。
・ ウニやカニなどを運ぶ貨物船の船員が、出入国管理及び難民認定法(入管法)の特例たる 「寄港地上陸許可」を得て、一時上陸するケース。最も多かった。
・ 稚内-コルサコフ間の定期フェリーで旅客として訪日する入国
サハリンのロシア人がなぜ大量に物を購入するのか?
その背景には、旧ソ連崩壊直後のロシアが経験した急激な市場経済化と通貨ルーブルの暴落がある。
その経験から、サハリンの人々には現金は信用ならないという意識が根付き、手元の資金はできるだけ不動産や耐久消費財など価値が保たれる「確実なモノ」へ交換する習慣が定着した。
第二章 国境を紡ぐ行政の現場
稚内市役所サハリン課は、自治体内で他国の地域名を冠する特殊な名称と役割を持ち、全国メディアにも取り上げられるほどの知名度があった。
サハリンのロシア人が好む稚内のスポット
・100円ショップ
・ホームセンター・カー用品店
・釣具店
・温泉
・大型スーパーマーケット
日本からサハリンへはどう行っていたか(2013年当時)
日ロ間の直行便
・ユジノサハリンスク-成田便
・ユジノサハリンスク-新千歳便
(どちらもオーロラ航空)
ハートランドフェリー株式会社が運航する
稚内-コルサコフ間の定期フェリー・アインス宗谷
稚内-サハリン間は、戦前・線中から定期航路で結ばれてきた歴史がある。両岸の人々の間には「移動は船」という意識が根強く、2000年代半ばまでは航空便よりフェリーの利用が圧倒的だった。ゆえに、稚内市とサハリンの関係において、フェリーは絶対的役割を果たし、対ロシア・サハリンにおける稚内の優位性を決定づける重要な要素であった。
稚内市が日本の他の自治体と決定的に異なる点
・ 最も近い街がロシアという国にあること
・ その街と狭い海峡で国境を通じて接していること
・ 街同士を結ぶ定期的な交通手段があること
日本は海に囲まれた「島国」で国境など見えないと思い込んでいる一般の日本人にとって、これは少なからぬ驚きだろう。
ロシアでは汚職にまつわる逮捕劇や公職からの追放が定期的に起きているが、表面的な報道をそのまま信じる現地の人は少ない。多くは政争の一環、あるいは権力闘争の結果とみなされている。
サハリン課は視野をサハリンにとどめず、「大陸市場」にも可能性を求めた。具体的には、ロシア極東の中心都市ウラジオストクやハバロフスク地方にも目を向けたのである。しかし、これらの地域はすでに中国資本をはじめとする海外企業が進出し、北海道庁による官民連携プロジェクトや本州の有力企業も多数参入していた。そのため、稚内が入り込める余地はごく限られていた。
そこで次なるターゲットとしてカムチャッカ地方に注目した。
