ウラジオストク 街の歴史散歩

B.マルコフ 著

大浦清・桂木健次・藤井昭二 訳

桂書房 発行

1992年8月25日 初版発行

 

1990年9月、北陸中日新聞のシベリア・極東調査団が極東・シベリア・モスクワ・レニングラードを訪問した時、極東大学から寄贈された『こんにちはウラジオストク!』(ガイド書)を訳した本です。原本の植字渡しは1988年の5月27日でした。

戦争や革命時の辛い出来事も多く書かれていて、胸が痛みます。

 

ウラジオストクは東経132度、北緯43度である。ブルガリアでは保養都市バルナと、フランスではニース、アルル市と、アメリカではニューヨーク、シカゴと同一の緯度にある。

 

ウラジオストクでは雪は大変少ない。多量の降雪の後でさえ、 雪は風によって吹き飛ばされ、あるいは雪どけの時に、小川となって丘からとけて流れる。

 

1890年10月、サハリン島への小旅行を行ったチェーホフが3日間ウラジオストクに滞在した。作家の鋭い視線は社会の最も病んでいる欠陥を発見している。チェーホフは次のように書いた。「私はウラジオストクにいた。沿海地方についてそして太平洋沿岸全体について、ただ一つだけ言える。すなわち目に余る貧しさである。貧乏、無知、絶望的なみじめな境遇」。同時にチェーホフはロシア人の力を信じ、いつか幸福な生活がこの沿岸を明るくすることを信じた。偉大な作家の名前と義勇艦隊の汽船名《ペテルブルグ》は結びつく。汽船《ペテルブルグ》でチェーホフは“サハリンの地獄”を去り、ウラジオストクと2つの海岸を経て、オデッサに到着した。チェーホフの旅行の後、義勇艦隊の多くの船は作家の発意によって集められた医薬品、本、寄付金をサハリンへ運んだ。

 

駅前広場からシコート半島ヘかけて

ホテル・ウラジオストックの小公園に1985年につくられた記念の標識が立っている。そこは作家チェーホフがこの場所でアムール湾のパノラマに見とれ、鯨さえ見たことを証言している。当時、この海に哺乳類はまれな存在ではなかった。記念の標識の場所にはチェーホフの銅像が建てられるであろう。

 

10月25日(オクチャブリスカヤ)通りに沿って

駅前広場から北へ、市の中央に向かって10月25日通りが通じている。通りは1922年10月、 ウラジオストクから干渉軍と反革命派の最終的な追放を祝して名付けられた。

 

20世紀の初めにはフォーキン通りには日本と中国からの移住者が住みついた。

 

ポロガヤ通りは革命前とても信じがたい習慣で有名であった。賭け事をやる儲け仕事の他に、人の売買が栄えた。ある家主たちは日本、中国、朝鮮から不法に連れて来られた若い娘を買った。市当局は再三これらの家の仕事をやめるよう説得した。すなわち家主に罰金を課し、立入捜査を行った。しかし人の売買が続けられた。警察官でさえ夕方、この通りを歩くことを恐れた。

 

海洋大通りに沿って

古典的な伝統を持つ美しい建物は日本領事館のために、建築様式の記念物として特別目立つように、1916年にヤコフ・シャフラ卜の設計によって建設されたものであった。

 

1880年4月28日ウラジオストクは公式に市となる。

1883年3月16日 ウラジオストクの紋章が公式に決められた。

1970年に市ソビエト執行委員会によって新しい紋章の案が決められた。

 

市のメイン・ストリートに沿って

メインストリートはレーニンスカヤ通り(現スベトランスカヤ通り)

 

極東で最初の放送局エルアー17は1926年にウラジオストクで操業を開始した。

 

大祖国戦争の時期に台座の上に、ラゾの銅像を建設することを決めた。銅像の作者は彫刻家ピサレフスキーであった。除幕は1945年8月12日に行われた。

 

レーニンスカヤ通りを南北の方向に横切っている通りは、艦長シェフネールの名前がついている。この通りの最初の名前は日本人通りであった。

 

草原広場からゴルドビン半島へ

 

草原通りに沿って一番川へ

市から第1番目の最も知られていた川が1番川になり、次の川が2番川になった。

 

ウラジオストク市近郊に沿って

 

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