6 ブリュネの末裔
高田商会に勤めていたはずの細谷安太郎は、明治維新後、少なくとも明治3年1月には釈放され、明治4年12月には、横須賀造船所に勤めている。当時の造船所長は、幕末から引き続いてフランス人のウエルニー(ヴェルニー)がやっている。ヴェルニー、シャノワーヌ、ブリュネは知り合いだったから細谷の横須賀造船所入りは自然である。
パリというのは、不思議な町である。例えば他の街、ニューヨークとかロサンゼルスとかベルリンとかブリュッセルに行っても、ある場所に立って、「ああ、この街に来たな」というような感慨を味わうことはない。タイムズ・スクエアといっても、ただの街角だし、ベルリンのツオー通りは、どこか淋しすぎる。
しかし、パリだけは違う。幕末の武士がそうであったように、あるいは幕末以降パリを訪れた日本人が全てそうであったように、凱旋門の傍らに立ってまっすぐに伸びたシャンゼリゼ通りを見た時、あるいはオペラ座の前に立った時、すべての人が「ああ、パリだ」と思う。
フランスとカサブランカの関係は、日本と台北に似ている、と言ったらおかしいだろうか。しかし、これは著者の実感である。歴史的にも、地理的にも人情としても、パリとカサブランカは強く繋がっている。カサブランカ行きのエア・フランスは、いつも満員である。
ドローム地方モンテリマールのブラティエの子孫の家訪問
ブリュネの子孫一家とノルマンディで会う。
7 燭光
現在区役所など公共の機関は、親族、あるいは弁護士のように本人に直接関係のある人以外には、戸籍簿の閲覧は原則として許していない。本人のプライバシーを守るためには、当然の措置である。
この取材を始めた頃は、その規則はそれほど厳重ではなかった。それなりの理由があれば、ある程度の「家系」は知ることもできた。
「初代」 松平太郎については、明治10年代、ウラジオストックにいた日本の領事館員松平という男が、鮭を安くどんどん日本に送るからと、東京魚河岸に連絡をしてきた、という話がある。
しかし魚河岸はこれを拒絶した。 安い鮭がどっと入ってきては、鮭の相場が下がり、価格が不安定になって、日本の漁業は不安定になるというのが、その理由であった。
8 詩と真実
日本の「木版」は「板」に彫るのである。つまり、木を縦に切ったものに彫る。それに押し付けた柔らかい和紙は、微妙な滲みを生じ、日本版画独特の、情感あるタッチを生み出す。しかし「正確さ」という点では、到底西洋木板には及ばない。
西洋の木版は、日本とは逆に、木を輪切りにするのである。ヨーロッパの空気は乾燥していて、水分が少ない。この堅い木に、針ほどの細いノミで刻んでゆく。百何十年も前の絵入り新聞が、「写真のように細かい絵」を使うことができたのは、この西洋木彫の技術によるものであった。
(山本芳翠「裸婦」)
山本芳翠には、明治30年、少女を描いて家族に贈った珠玉のような作品や、明治15年パリで描いた、日本人としては歴史上初めての油絵による裸婦など、知られざるいくつかの作品がある。芳翠の裸婦は長い間裸婦を描き続けてきた西洋画家の作品と違って、瞬間息を呑むような瑞々しい色香にあふれている。
エピローグ 最後の頁
嘉永4年、江戸赤坂に1人の男が生まれた。1838年、フランス・ベルフォールにも、1人の男が生まれた。
彼等はたまたま1869年冬の日本・箱館の地で、国境、歴史、背景を乗りこえて、一つの仲間として集まり、とある写真館に入った。このとき一緒にカメラに収まった男たちの中には、天保10年生まれの男や、リニエール生まれの男など8人がいて、彼らはそれぞれの思いを込めて、「ある一瞬」の姿を後世に残した。
