ヨーロッパ運河物語
その美とロマン、技術の系譜を訪ねて
長野正孝
国際航路会議協会日本委員会
日本の水辺と運河を考える会 著
山海堂 発行
1995年4月8日 初版発行
はじめに
北ヨーロッパの町には、それぞれに個性と自己主張がありますが、重要なことは
・水を可能な限り町に引き寄せ、逆に高速道路や鉄道を町から遠ざけている
・町の中心に人の集まる水辺と広場をつくり、そこに古い伝統、文化を伝える歴史的建造物、産業遺産を保存・再生し、町の人々の心のよりどころになる景観をつくっていく
という共通した開発手法があるようです。
ハンザの町 運河の原風景 箱庭的運河都市
古代ローマ時代にライン川とマース川下流のオランダで運河がつくられたのが最初の記録である。
教会の尖塔、市役所、昔の風車、橋などランドマークとなる主たる建物、構造物と水路の配置において「透視画法(遠近法)」が用いられ、景観の大きな骨格がデザインされた後に、視点場となる辻、路地、道路、広場、水辺の空間をより美しく見せるいくつかの工夫がなされてきた。
ブリュージュとはこの地方のフラマン語で「橋」 という意味
ブリュージュの運河が世界の町に通じていた時代、家々の玄関は運河の水面にあった。
リューベック港は景観を配慮してクレーンの色はコバルトブルーとベージュに統一してある。
リューベックのミューレン湖
朝日が池の水面に塔を映し出している。第二次世界大戦で破壊され、その後修復された聖マリア教会の大聖堂。水面に映る景観を強く意識して塔の高さと池の幅のバランスが考えられている。古い地図によればこの池は昔は普通の水路であった。
リューネブルク
かつて岩塩を積み出し、町を繁栄に導いたクレーンは、今は町のシンボルとなっている。この種の人力クレーンは13世紀頃から北ヨーロッパに普及した。その原理は大きなホイールに囚人や奴隷を入れ、コマネズミのように回し、そのエネルギーを歯車の回転でワイヤーに伝達し、荷役作業を行うものであった。
オランダ 環濠都市―風車、水門、跳ね橋の役割
アムステルダム
塔に向かってまっすぐに運河は進む。この構図にはルネッサンスに始まった遠近法の手法が導入され、中心の塔に水路が近づくにつれ、やすらかな心地を与えてくれる効果がある。
フランス、イギリスの運河―都市景観 田園風景の創造
17世紀から19世紀にかけてフランスのブルボン王朝によってエルヌ、マルヌ、ソーヌ川などを結ぶ低湿地の短い運河群とセーヌ川とローヌ川を結ぶブリアール運河、地中海からガロンヌ川を経由してビスケー湾を結ぶミジ運河(ミディ運河)など大河川をつなぐ運河がつくられた。
ライン川とドナウ川を結ぶ運河がルードリッヒ1世によって1845年に建設された。ブルボン朝からこの時代までの運河の特徴としては、馬によって舟が曳かれた時代で、100トン前後の小さな舟を通すものだった。
現代運河素描
ドイツの再開発は、日本で行っているような過去のメモリーを完全に取り去るスクラップ・アンド・ビルト方式と異なり、古い倉庫、工場などを産業遺産として再生保存することに重点を置き、昔の姿をとどめるよう努力している。
ハーメルンのレンガの閘門は町の色に合わせてある。
キール運河
北海・バルト海運河ともいう海面式運河。1895年にウィルヘルム2世がドイツ艦隊を北海、バルト海の両洋に展開できるようユトランド半島をショートカットした103kmの運河である。
ドイツ運河紀行
ラインの自由航行が可能になったのは、ナポレオン戦争でドイツの諸侯連合が敗退し、その徴税権が剥奪されたからである。ナポレオンによって関所、税関、砦の武装解除が行われ、自然河川であったライン川の改修も進んだ。半世紀にわたり河床浚渫、護岸改修が行われ、今日のように船の航行が可能な河川になったのである。
