青い眼が見た幕末・明治
12人の日本見聞記を読む
緒方修 著
芙蓉書房出版 発行
2020年6月25日 第1刷発行
第1部 幕末・明治を外から見る
1 ロシア文豪が見た幕末日本―閉ざされた玉手箱
イワン・A.ゴンチャローフ『ゴンチャローフ日本渡航記』
1853年8月に長崎に来航したロシア施設ブチャーチン提督の秘書官ゴンチャローフ
ワーテルローの戦いで敗れたナポレオンは「絶海の孤島」セントヘレナに幽閉された。が、ちょっと待て、絶海の孤島と言うが、ここは欧米の艦船が寄る補給地なのだ。
日本に来たペリーも寄っている。
プチャーチン艦隊の2度目の訪日は津波に襲われ、乗ってきたディアナ号は沈没した。約500人の乗組員は1人を除いて救助され、伊豆の戸田村へ半年滞在する。そして日本人大工の助けを得て船を造る。無事に帰国するまでの物語は日露友好の象徴だ。
軍事力においてはるかに劣る日本は、川路聖謨の交渉力で協定締結に至った。
2「ペリーがかんぬきを外し、ハリスが門を開けた」
タウンゼント・ハリス『日本滞在記』
米国の初代日本総領事ハリス
3 ヒュースケン暗殺―恐怖の夜が続く
ヘンリー・ヒュースケン『ヒュースケン日本日記』
ハリスの通訳ヒュースケン
ヒュースケンとハリスは28歳の歳の違いがある。遊び盛りのオランダ出身の若者と、聖書を読み仕事に励むアメリカの中年のベテラン外交官。気質の違いから神経をすり減らすこともあったようだ。ハリスは一生女性を遠ざけ、死ぬまで独身で過ごした。ハリスと唐人お吉の物語は有名だが、事実ではない。
4 美しい日本―危険な役人たち
ラザフォード・オールコック『大君の都‐幕末日本滞在記』
イギリスの初代駐日公使オールコック
「日本は社会制度の面ではイギリスの12世紀頃の状態に似ている」、いわゆる幕藩体制を 「東洋的なマキャヴェリズム」だとオールコックは指摘する。
オールコック英国公使は外国人では初めての富士登山という名誉を担うことになった。(外国人女性では後任のパークス公使夫人が初めて)。
5 サトウ詣での有力者たち
アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』
小イギリス主義
英国内で、費用のかかる植民地経営は止めて、自由貿易を推進することの方が英国の利益に結びつくという考え方。1890年初頭、時の外相ローズベリーによって初めて使われた。
巨漢医師ウィリアム・ウィリス
人情味厚く、最前線の戦場で敵味方なく助ける。実践重視のイギリス医学に基づいて大活躍するが、新政府の大勢はドイツ医学に傾いていく。失意のウィリスは西郷隆盛に呼ばれて薩摩で医療に従事する。それがあだになり、西南戦争以後は新政府からは疎んじられる…生き方がまっすぐで世渡りが下手なのだ。
6 蚕を求めてやってきたイタリア使節団
V・F・アルミニヨン『イタリア使節の幕末見聞記』
イタリア海軍中佐アルミニヨン
アルミニヨンは 日本使節団に対してこう切り出す。
「日本を西洋に紹介したのは1人のイタリア人だった」
(1人のイタリア人とはもちろんマルコ・ポーロのこと)
アルミニヨン自身が、フランス、イタリア間の係争の地であったサヴォイア(サヴォア)の生まれであり、1860年にサヴォイアがフランスに帰属するに至ると、一旦はフランス人としてその海軍の一員になることを選びながら、1861年にはそれを辞してイタリア軍人にかわったという経歴の持ち主である。
7 小国デンマークを襲う危機
エドゥアルド・スェンソン『江戸幕末滞在記』
フランス海軍士官として日本を訪れたデンマーク人スェンソン
8 灯台の父―地震・オヤジも恐れずどんどん進め
リチャード・H・ブラントン『お雇い外人の見た近代日本』
お雇い灯台技師として明治初期に来日したスコットランド人ブラントン
(ブラントンが体験した灯台の地震で)地震を受けた塔は煉瓦構造の撓み(たわみ)のおかげで、基部は揺れても頭部は全く静止していたのである。
(関東大震災の時に煉瓦建築は地震に弱かったことが証明されたと思うのですが)
9 ロシア・ナロードニキの見た明治「革命」
レフ・I・メーチニコフ『回想の明治維新』
民衆(ナロード) こそが社会変革期の主体であるとする「危険人物」
(著者の経験)
イラン革命の後、バニサドル大統領と革命指導家ラジャビ氏がパリに亡命した直後、近郊のポントワーズに滞在中の2人を訪ねたことがある。バニサドル大統領は裏庭で革命派の学生たちとピンポンをしていた。
ナロードニキらしく「下層社会」の不良外人に対する見方がどこか優しい。神奈川の一寒村であった横浜が「歓楽と売春の国際都市として生まれ変わった」と嘆いている。
羽仁五郎著『明治維新史研究』
「ええじゃないか」は 大衆の不満のガス抜き、に過ぎない、ととらえている。
10 大義ばうち忘れとる今の政府ば倒す
オーガスタス・マウンジー『薩摩反乱記』
西南戦争時にイギリス公使館書記官として駐在したマウンジーによる記録
11 近代日本医学の父
トク・ベルツ編『ベルツの日記』
お雇い外国人として29年も滞在したドイツ人医師エルウィン・フォン・ベルツの日記を、長男トクが編んだもの
英人医師ウィリス・ウィリアムスの教えを受けた高木兼寛は海軍の脚気患者をほとんどゼロにした。日本での評価は低かったが海外では絶賛された。
12 トラブルを恐れぬレディ・トラベラー
イザベラ・バード『日本奥地紀行』
旅券の発行者は英国公使のパークスである。水戸黄門の印籠、敗戦直後のマッカーサー命令みたいなもので、落ち度があっては地元警察の署長のクビが飛ぶ、くらいのスゴ味はあったのだろう。
通訳の伊藤(伊藤鶴吉)は《利口で、旅行中はよく気がつき、異常な知能をもっているので、毎日私を驚かせる》《毎日彼は、 私が用いるが彼にはよくわからない単語を全部ノートに書きつけて、晩になると私のところに持ってきて、その意味と綴りを習い、日本語訳をつける。彼はすでに多くの本職の通訳よりもずっとうまく英語を話す。しかし彼がアメリカ人の使用する俗語や不遠慮な癖を真似しなかったら、もっと好感がもてるのだが》
バードの北海道への旅は、英国公使パークスの目的とも一致する。すなわちロシアはどの程度北海道へ浸透しているのか?彼らと接するアイヌたちの実情は?
第2部 幕末・明治サイド・ストーリー
ブルュネ大尉はフランスの軍事顧問団として派遣され、幕府の伝習隊(陸軍歩兵)を1年にわたって訓練した。この隊が戊辰戦争では主力になった。その後、幕府軍が降伏し、一部が北海道の五稜郭に向かう。ブリュネらは脱走して合流した。サムライの生き方に共鳴したところだけが映画「ラスト・サムライ」と共通している。
『 追跡 一枚の幕末写真』鈴木明著
足掛け4年にわたってフランス軍事顧問団のメンバーの足跡をフランス各地や国内に取材した労作
梅棹忠夫によれば、 もし日本が鎖国をしていなかったならば…
「 日本は18世紀中頃、ベンガル湾において、イギリスと大海戦を行っていただろう」(『日本史の仕組み』)
海外においては、台湾、フィリピン、東南アジアの各地に日本人町が作られた。
イギリスは17世紀半ばにはインドのベンガル地方の経営に着手している。従って東から来た日本と衝突し、ベンガル湾で大決戦を行うことになっただろう。
メディアの堕落は今に始まったことではない。むしろ記者たちは「羽織ゴロ」とも呼ばれていた。見かけは立派な羽織を着ているが、中身は卑劣なヤクザ、という意味だ。
