モンテーニュ 旅日記(下)
宮下史朗 訳
岩波書店 発行
赤509-8
2026年4月15日 第1刷発行
第二部(承前)
(モンテーニュがフランス語で書いたパート)
Ⅸ ローマからロレートへ
このロレートで人々の信仰を集めている場所は、ずいぶん古くてみすぼらしい、煉瓦づくりの細長い小屋なのである。
(注 「聖なる家Santa Casa」 のことである。聖母マリアの家とされるもので、ナザレから天使たちによって運ばれて、最後は、この地の月桂樹の森の中に据えられたとされている)
Ⅹ ロレートからルッカへ
アンコーナ
これほどウズラを食べさせるところもないが、どれも痩せていた。
ウズラは対岸のスラヴォニアから群れをなして渡ってくるという。毎晩、海辺に網を張って、ウズラの鳴き声をまねして、上空を渡ってくるウズラをおびき寄せるのだという。
アンコーナの名は古く、ギリシャ語の「肘(アンコン)」に由来する。この場所で、陸地が海に「肘」のように突き出ているからだ。
ファーノ
当市は美人の多いことで、 イタリアの全都市をしのぐとの評判だ。しかし、そんな美女は見かけないどころか、醜女ばかりだった。それで、町の紳士にこの点について尋ねたところ、それはもう昔話ですとのことだった。
奇岩ひしめく山峡の、狭くて難儀する道をこれも3マイルばかり行くと、岩山にうがたれた長さ50歩を超える隧道に遭遇した[このあたりは「フルロ峡谷」と呼ばれる景勝地]。大変な工事であるから、最初に着手したアウグストゥス帝の名で銘文が刻まれているものの、歳月を経て消えてしまっている。また隧道の反対側には、ウェスパシアヌス帝に捧げられた銘文もあった。このあたりの山道から河床を見下ろすと、いかに大工事であったかがよくわかる。スパッと切り取られたものすごい厚さの岩が、ゴロゴロ転がっているのだ。
ウルビーノ
わたしはここで、あのピコ・デラ・ミランドラの真に迫った肖像画を見た。白晳の美青年、ひげはなく、17、8歳だろうか、鼻は高くて、目元はやさしく、細面で、金髪が肩まで垂れて、奇妙な服装をしている。
ルッカ
このルッカは、わたしがこれまでに見た中でも絶勝の地の一つである。都市の周囲には2 マイルを超える平野が広がっていて、狭まったところがとりわけ美しい。また、周辺を山や丘の美景が取り囲んでいて、大部分の住民がそうした田園地帯に居住している。
ⅩⅠ デッラ・ヴィッラ温泉、最初の滞在(一)
第三部
(モンテーニュがイタリア語で書いたパート)
ⅩⅡ デッラ・ヴィッラ温泉、最初の滞在(二)
ⅩⅢ デッラ・ヴィッラ温泉からフィレンツェ、ピサへ
ここフィレンツェでは、 ワインとともに雪を ワイングラスに入れるのが習慣になっているが、わたしは少ししか入れなかった。
ローマやヴェネチアの娼婦たちは、窓辺で男たちの気を引くけれど、フィレンツェの娼婦たちは家の戸口にいて、頃合いを見て人目を引こうとする。彼女たちが、大なり小なり仲間で輪をつくって、道ばたでしゃべったり、歌ったりしているのが見られる。
ⅩⅣ ピサからルッカへ。デッラ・ヴィッラ温泉、二度目の滞在
ⅩⅤ ルッカからローマへ。二度目のローマ滞在
シエナの広場[カンポ広場]はきわめて美しく、 イタリアのどの都市にも及ばない。この広場では、毎日、祭壇でのミサが公衆に向かって唱えられる。広場の家も店も市庁舎の方を向いているから、職人も住民たちも、仕事などをやめて持ち場を離れることをせずに、ミサを聴くことができるのだ。
(注 市庁舎から張り出す形で、鉄柵で囲まれた礼拝堂があって、いわば広場に向かって開かれている。本文は、こうした特別な形態について述べている。これはペスト大流行後の1352年に、疫病終息祈願の成就を記念して新たに建造された部分であって、別名「広場の礼拝堂」なのである(マニエリスムの画家ソドマ作のフレスコ画「聖家族」が飾られている)。
ⅩⅤⅠ ローマからモン=スニ峠へ
トリノ
ここではフランス語が普通に話されているし、誰もがフランスに忠実であるようだ。民衆のことばは、発音だけはいかにもイタリア語というだけで、フランス語なのである。
第四部
(モンテーニュがフランス語で書いたパート)
ⅩⅦ モン=スニ峠からモンテーニュの城館へ
わたしはモン=スニ峠[標高2083m]を、半分は馬で、半分は4人の男が担ぐ輿に乗って越えた。残りの4人は交代要員で、彼ら8人がわたしを肩で担いで運んでくれたのだ。峠の登りは2時間、石がごろごろしていて、慣れない馬だとしんどいものの、そうでなければ、危険も困難もない。
この時には、全てが雪に埋もれていた。下りは1リュー程で、急なところをまっすぐ降りる。私は同じ男たちにそりで運んでもらった。
付録 モンテーニュ 家事目録

