地中海の慰め ダンテ〈天国篇〉

〈天国篇〉の〈第一歌〉で天国を歌うに先立って、ダンテはここでも前口上を述べております。その趣旨は天国を見事に歌い上げたい熾烈な願いにもかかわらず、これはまことに困難だというのです。テーマが巨大であって、皇帝の統治の事業にも比すべきものだというのです。

 

ベアトリーチェとダンテが無意識のうちに光の大海へと船手していく。

ここで筆者は、イタリアの春の青空を思い出してしまう。

 

〈第二歌〉のテーマは月の世界

 

光に質の差異はない、とは現代物理学の教えるところで、われわれはベアトリーチェの論証は誤りだと知っています。それにしても光に質の差異があるかないかをひとたび問題にし始めると、なかなか興味深いのです。なぜかと言えば、光は人間の感情に微妙に作用し、歓喜とか悲歎とかさらには聖なる想いに深く関わるからです。ダンテはこれらの感情の根拠として、光の質の上下関係を想定しているのでしょう。

 

〈第五歌〉で月から離れたダンテとべアトリーチェ はやがて水星に到着します。

〈第八歌〉でダンテとベアトリーチェは金星に現れます。

〈第十一歌〉で太陽にフランシスコを住まわしてるのは、この聖者の有名な〈太陽讃歌〉を考えさせます。

〈第十二歌〉にはドメニコが舌鋒鋭い論争の聖者であったことが、相当にゴツい筆致で書かれていて、フランシスコの場合の柔らかさとは対照的です。

〈第十八歌〉〈第十九歌〉〈第二十歌〉の舞台となってる木星は、赫々と輝く正義の星で、その雰囲気は水星と兄弟のように似ています。

 

ダンテは星ごとに、そこの住民たちを分類して、強くその星の個性を打ちだしていますか、このやり方はキリスト教的ではなくて、むしろプラトン主義のように思えます。キリスト教では、人間の魂は無から創られ、彼の肉体が死ねば、それは地獄か煉獄かあるいは天国に入ると、言っているのに、プラトン主義では、人間の魂はそれぞれに、ある星から来てやがてその星に帰って行く、と言っているからです。ダンテの書き方はどうも後者のように思えるわけです。

ところが ダンテは《神曲》の真意はそこにあるのではない、と言います。おのおのの星はそれぞれに徳を具えている。その徳を身をもって説き明かすために、聖者たちは彼らにふさわしい星に派遣されているので、もとより、彼らは平等な資格で天国の住人たちだと言うのです。

 

海鳥のように メディア

金羊皮を求めてアルゴ船で舟出したイアソン

イアソンを主領とするアルゴ船は、さまざまな波に洗われた。ギリシャ本土マグネシアのパガサイ海岸を舟出して、今日のダーダネルス海峡とボスポラス海峡を通って黒海に入り、その西岸に沿ってコーカサスのすべての海辺を覆い、やがて黒海を横切ってダニューブ河に入りこみ、ブルガリアとユーゴスラビアを縦断し、アドリア海に出て、その全海域をさまよい、今度はポー川に入りこみ、ローヌ川を経てマルセイユの西から地中海へ 放たれ、ついには北アフリカのリビアの砂地を船は百足(ムカデ)のように這い、故郷へ帰還したという。全工程の中心点はコーカサスのアイア、そこに目的の金羊皮は燦然と輝いていた。

 

かぐわしい香り ゴーギャン

ポン・タヴァンに滞在していたゴーギャンは1894年の初夏に仲間たちとコンカルノという漁村に遊びに行きます。そこで漁師たちと喧嘩になり、ゴーギャンは重傷を負ってしまいました。

この事件は、ゴーギャンにこのまま生き続けることへの嫌悪を募らせました。遂に彼は第二次南太平洋滞在の決意を固めます。この移住の決意には、第一次の時にはなかった諦念が見られます。

 

スペインの思い出

スペインはナポレオンに侵略されたことがありました。ナポレオンは全ヨーロッパを侵略しようとして、1800年代初頭にスペインにも何十万という軍隊を送っています。スペインは、ゲリラ戦でナポレオン軍を大いに苦しめました。ゲリラというのは、戦闘という意味のスペイン語だそうです。後年ナポレオンは、スペインに軍隊を送ったのは悪夢のようだと言っています。セント・ヘレナ島でその悪夢にうなされたんじゃあないでしょうか。

スペイン人というのは怖いんです。一般に計算は下手かもしれませんが、怖いんです。特に民衆は誇りのためにはどこまでも頑張ります。闘牛はそうでしょうね。あれを見ていると、その妙技はともかく、闘牛士に大変な根性を感じるんです。その根性で、ナポレオン軍を苦しめたんです。しかし政府は敵と妥協してしまった。だから民衆のゲリラは孤立してしまった。スペインでは政府と民衆は違うんです。政府は弱腰でも、民衆はどこまでも抵抗します。国土に対する愛と言うべきでしょうか。徹底抗戦をやりました。

しかし、フランス人は外交をうまくやります。仏西両国の上層部同士でパーティーをやりました。フランス士官はお世辞が上手なのに対して、スペイン士官は正直に答えました。

スペイン人にはこんな独特の良さがある。外交辞令(ディプロマシー)なんかないんだと言っているのです。ディプロマシーというのは、二次的な技術だとされますし、ひいてはお上手とか、さらには偽善者とかインチキ野郎という意味にもなりかねもありません。

(フランス人とスペイン人の個性が際立つエピソードですね)

 

私(著者)の郷里の久能山の東照宮は日光の東照宮の前身で、最初家康は久能山にまつられたんです。ですから久能山には家康の宝物を収めた博物館があるんですが、そこへ行って見ていましたら、古い時計があって、スペイン人宣教師が贈呈したものだとのことでした。精巧な置き時計です。台のところに真鍮のプレートがはまっていて、〈トレドのマテオが私を作った〉と刻んであるんです。〈私〉というのはその時計のことですね。年号も書いてありました。

(最古のラテン語の文章といわれるのは、黄金製の留め金に書いてあった「マニウスが私をヌメリスのために作った」という文章という説が有力。物を擬人化しているところが似ている。スペイン語はラテン語から派生したことが現れている文章)

きっと宣教師は故国の精密な技術を家康に誇示しようとして、これを贈ったのでしょう。

15世紀を中心として、トレドが世界文化の中心であったとは、よくいわれることです。多勢の学者がいて、アラビア語の書物が次々と翻訳され、それがヨーロッパの進歩に計り知れない貢献をしたのだそうです。有力なユダヤ人の学者も揃っていて、宗教を考え、科学研究につとめていたそうです。もちろんキリスト教に関しても、当時のトレドの神学はヨーロッパに冠たるものだったそうです。

 

ギリシャから旅してスペインのトレドまでやってきてそこに住み着いたといいますと、とんでもない変わり者のように見えますが、エル・グレコはあの時代において、なすべきことをなしたといってもいいのです。大きな才能がそれにふさわしい役割を果たしたということです。彼の故郷クレタ島ではイスラム教徒の攻撃が強く、キリスト教とイスラム教は厳しくぶつかっていました。そしてクレタ島という厳しく容赦ない思想の東の接点から、トレドという西の接点へやってきたんです。トレドでもまたキリスト教は、イスラム教を防ぐために先鋭化して、悪名高い異端審問などが激しかったんです。グレコはそういう熱い場所に身を置く画家でした。渦に巻き込まれて、燃えながら、感動に身をゆだねて描く画家だったんです。使命であるが如くに、それをやってのけた画家だったんです。

エル・グレコと徳川家康の 2人の生涯はほとんど完全に時を同じくしているんです。エル・グレコは1541年生まれで1614年に死んでいますし、家康は1542年生まれで1616年に死んでいます。面白い偶然ですね。この事実にスペイン人宣教師の来日などを合わせて考えますと、歴史が如実になってくるような気がします。

 

サンチャゴ・デ・コンポステラはガリシア地方の町でして、この地方の海岸のことをバッハス・リアスと呼びます。というのは、地理で教えるリアス式海岸という言葉は、ここからとられているのです。