クレットマン日記
若きフランス士官の見た明治初年の日本
松崎硯子 訳
平凡社 発行
東洋文庫898
2019年12月13日 初版第1刷発行
本書は、コレージュ・ド・フランス日本学高等研究所により2015年に刊行されたDeux ans au japon 1876.-1878(『滞日2年、1876-78』)のうち、第一部・日記の翻訳です。
著者のルイ・クレットマンは第二次フランス軍事顧問団のメンバーとして1876年2月7日に来日し、1878年5月20日に離日しました。
一読して、日本では火事と地震が多いと改めて感じました。
序 フランシーヌ・エライユ
ルイ・クレットマン(1851−1914)はストラスブールに生まれ、
1871年 上位の成績でエコール・ポリテクニック(理工科大学)に入学した。
1874年 フォンテーヌブローに設置されていた工兵実習学校を出席で卒業
1876年2月から陸軍士官学校で地形測量法、築城学、ついでに化学を講義した。
1878年5月 離日
1912年 自らの希望で退官
1914年 アルザス地方がフランスに復帰するのを待たず逝去
クレットマン日記
一八七五年一二月―マルセイユからアデンへ
一八七六年一月―アデンから香港へ
一八七六年二月―香港から横浜まで/江戸(東京)に住まいを構える
一八七六年三月―江戸(東京)の街の発見/三丁目谷への引っ越し
一八七六年四月―ビエ、ブーグアンと小田原、箱根、大島旅行
酒匂川と小田原の間は、バン・ド・ラ・ロッシュ(アルザス地方ボージュ山地の一地域)の入口に似たすり鉢状の地形である。
注 横浜ガス工場は日本最初のガス工場で、実業家高島嘉右衛門により、フランス人技師のアンリ・ペルグラン(1841−82)の協力を得て創設された。1872年に創業し、横浜の公道のガス灯にガスを供給した。
ペルグランはエコール・ポリテクニック出身ではなく、パリ中央工芸学校出身である。
(以前NHKラジオフランス語講座でペルグランのことを勉強したが、日本ではプレグランと呼ばれている、とのことだった。フランス語のアルファべを見ても、明らかにペルグランの方が正しい)
大島の島民は本土の日本人より背が高い。女性はより美しく、優雅に巻いた手ぬぐいをかぶり、荷物を頭の上に乗せて運んでいる。人種は内地の日本人よりアイヌ人に近い。
一八七六年五月―江戸と横浜の「時節」/野戦演習場滞在
一八七六年六月・七月―江戸と横浜の「時節」(続)
ミカドが還幸された。(…)ヤシキの門で、哀れな奴が嘆願書を竹の先につけてミカドに差し出したが、すぐに捕えられて、アンドゥイユ(ソーセージの一種)のように 紐で縛られた。
(アンドゥイユに例えているところが 面白い)
一八七六年八月・九月―下関と長崎へ旅行、繰り上げ帰省
一八七六年一〇月・一一月―野戦演習
日本人はヨーロッパの犬を「カメ」と呼んでいる。多分、英語の《come here》かオランダ語の略語からきているのであろう。
一八七六年一二月―シャルヴェ中尉来日/クリスマス
革なめし工の職業に対する日本人の偏見。かつては、革なめし工は江戸に住むことを禁じられ、裸足でしか江戸に入ることができなかった。
一八七七年一月―新年拝賀/日本の士官の家に招待される
一八七七年二月―火災の月/反乱の始まり
反乱(西南戦争)はパリ・コミューンと同じようにして始まった。
注 クレットマンは、武器の引き渡しをめぐって中央政府と反乱軍が衝突し、内乱が起こるきっかけになった点に西南戦争とパリ・コミューンの発端の類似点を見出している。
一八七七年三月―反乱は続く/神戸とその近郊に出発
コロネルが士官学校において三年生を集めて別れを惜しんだ。彼らの不在が短期間であればよいが、どうもそんな様子はない。
(…)
士官学校は空っぽ。生徒は全員出征したのだ。
一八七七年四月―シャルヴェと神戸、京都、奈良、大阪旅行
“一八七七年”五月・六月・七月―ガロパン中尉の来日/日本の二人の士官を招待/伝統的な祭り
一八七七年八月―シャルヴェ、ブーグアン、ガロパン、エイルブロネと日光、浅間山に旅行
一八七七年九月―内戦終了
一八七七年一〇月・一一月―野戦演習場滞在/大尉に昇進/教務主任に任命される
一八七七年一二月―たくさんの宴会!/ジュールダン大尉の離日
一八七八年一月・二月・三月・四月―日記を記す時間があまりない
一八七八年五月一日~二〇日―出発準備/五月十四日、大久保卿暗殺/五月二〇日、日本出航
