古代ローマ歴史散歩
最盛期の帝国の街並みをたどる
フィリップ・マティザック 著
大槻敦子 訳
原書房 発行
2026年1月30日 第1刷
本書では4世紀末から5世紀にかけてローマの街を散歩した情景を描いています。そして21世紀現在の状況も述べて、対比できるようにしています。
はじめに
2世紀以降、ローマという都とローマ帝国は全く異なる運命をたどった。アントニヌス朝の皇帝たちのもとで 最盛期(98〜180)を迎えた帝国は転落の道をたどったが、都ローマは、帝国が崩壊して野蛮な略奪者の標的にされる5世紀まで、拡大と成長を続けた。
4世紀末のローマは、人口、歴史における重要性、建築遺産において、世界最大の都と言ってよかった。
序 章 壁の外側 アルバヌス丘陵からローマまで
不思議なことに、見事な浴場を作ったのは、ローマの最悪の皇帝たちである。ネロの浴場は豪華なことで知られ、カラカラは、そこへ行くことが目当てになるくらい立派な一連の湯殿を作った
水道までもが水道橋公園として素晴らしい姿を残しているが、公園の穏やかな景色は、本物のローマ時代を背景に古代を舞台にした壮大な映画を撮るロケの撮影班にいつも邪魔されている。
1日目 第8行政区 アウェンティヌスと埠頭
2日目 第2行政区 カエリウスの丘
3日目 第3行政区 コロッセウムからトラヤヌス浴場まで
ネロの邸宅のうち、現存している部分は、まさにその後の皇帝たちが埋めてしまったために、極めて良い状態にある。地下にあったことで、朽ちやすい壁の帯状装飾や絵画が湿気から守られていたため、ルネサンス期に発掘された時には、ローマの芸術界で話題を呼んだ。時を置かずして、ミケランジェロをラファエロを含む芸術家たちが、自分の目で作品を見ようとロープを使って地下へ潜った。
長い年月を経ても残る記念物を建てたかったら、コンクリートを使えと告げているようなものだ。レンガは再利用が容易である。石造りの記念建造物は、石にはもっと良い使い途があると考える人々のための都市部の採石場と化す。そして青銅は大砲などを製造するために溶かされてしまう。
地震でコロッセウムは南側のほとんどを失い、ローマ教皇たちは自分の様々な建築プロジェクトに使うためにせっせとがれきを持っていった。幸い、ここで多くのキリスト教徒がライオンの餌にされたと勘違いした教皇ベネディクト14世が、18世紀にコロッセウムを神聖な場所に定め、破壊活動に終止符を負っている。
(実際には、キリスト教徒のほとんどはヴァティカンの丘にあったネロの競技場で犠牲になった。フラウィウス円形闘技場のキリスト教徒の犠牲者は主に、他の犯罪が原因で処刑された人々である)。
4日目 第8行政区その1 フォルム・ロマヌム
フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)は侵略者によって破壊されたのではない。「蛮族」は彼らローマ人だった。西ローマ帝国の崩壊とともに、広場は大部分が放棄された。多くの建物が荒れ果て、いくつかは地震で崩れた。立派な石の資源を無駄にすることなどないローマ人は、教会の建設や防衛の構築にあたって残骸から建築資材を剥ぎ取り、残骸がなくなるとまだ建っていた建造物に目を向けた。建物は取り壊され、大理石は教会や富裕層の邸宅の装飾に再利用された。石は焼かれて、コンクリートを作る石灰になった。
5日目 第6ならびに第5行政区 ローマの北側の丘
実際、ローマにある丘は7つではない。というより、詩的表現のために事実を曲げるなら、別に、ローマの5丘でも7丘でも9丘でも何でもいいはずだ。だが、ローマ人は神聖な数字である7に決めた。
なぜ7なのか
四角形は平凡の象徴である。辺は4つだ。4は1と2と4で割れる。言い換えれば、1から4までの数字のうち3でだけでは割れない。3は三角形の辺の数で、神聖な数字である。3が完璧なる神の数字であるという考え方は、遅くとも紀元前500年のピタゴラスに起源があり、西洋人の意識に深く刻み込まれている。7はつまり、平凡と神聖の融合を示す普遍的かつ包括的な数字で、素数という点でも特別である。
6日目 第8行政区その2 皇帝たちのフォルム
7日目 第9ならびに第11行政区 フラミニウス競技場から家畜市場
8日目 第10行政区 カピトリヌスとパラティヌスの丘
9日目 第14行政区 トランスティベリムとヴァティカン
10日目 カンプス・マルティウス
ローマのコンクリートが特別に強い理由
・セメントに加えられる砂利などの骨材が極めて硬い
・水が含まれれば含まれるほど硬くなる性質
・プルウィス・プテオラヌスという火山性堆積層の細かい土を使うことにより、自己修復機能を持たせている
アラ・パキス(アラ・パチス)の祭壇が設置されていた当初の建物は満足のいくものではなかったため、2006年に、ある建築事務所が発案した現在のデザインになった。よって今は、ティベリス(テヴェレ)川を見渡す、広々とした全面ガラス張りの建物に入っている。新しい場所に移設されたにもかかわらず、アラ・パキスはなおもムッソリー二のファシスト政権と関連があるという悪いイメージを払拭しきれておらず、今も時々イデオロギーに基づく破壊行為の標的にされている。
