エイミー・ワインハウスが亡くなった。彼女のヒット曲をメロディーコールにするくらいのファンだったのでショックだ。彼女はグラミー賞を受賞しながら、麻薬とアルコールに起因する数々の奇行の方が彼女を有名にした。ヒット曲のリハブは自らのアルコール中毒の矯正施設すなわちリハビリ施設をテーマにしていたのは皮肉なことだ。エイミー・ワインハウスを始めて聞いたとき、デジャブ感があった。かつてロックの女王と呼ばれたジャニス・ジョップリンにおそろしく似ていた。アルコールと麻薬におぼれたところも似通っている。エイミーがジャニスと同じユダヤ系だと知ったときも妙に合点がいった。そしてジャニスが酒と麻薬が原因で夭折したのが27歳のとき。奇しくもエイミー・ワインハウスの享年も27歳であった。合掌。
新幹線に常備されているウェッジなる雑誌の7月号を見て仰天した。表紙を飾る文字は「それでも原発、動かすしかない」。何とも勇ましいタイトルだ。さすがJRの雑誌だ。記事の冒頭を飾るのは大停電に陥った漆黒の闇の大都会の写真。以下、記事のタイトルと結論を抽出すると。「日本経済のダメージはどこまで」、拙速な原発停止は日本経済にこれだけのダメージを与える。皆で貧しくなることを選択するなら話は別だが、経済と安全のバランスを重視しなければ、十分な福祉も復興も賠償も覚束なくなってしまうだろう・・・??原発を廃止すれば皆が貧しくなるのか。福島の避難民のような原発被害者が今後出ても総体的には豊かなのか・・・「賠償スキーム、東電だけが悪者か」、巷間ではこのスキームに、東電解体まで踏み込めとの声があがる。後述するが、これらは東電のみを悪者にしようとする政府のプロパガンダに乗せられた感情論の側面が強い。国が原発を動かすべしと言う以上、賠償でも自らの責任を示すことが不可欠だ。このままでは諸外国からもそしていずれ国民からも、この国は厳しいことから逃げるのかと見られ信頼を失うだろう。問われているのは国家としての矜持である・・・??「国家の矜持」とは恐れ入った。この論者は東電のみが賠償を負うのはおかしいとの理由として原子力損害賠償法の立法段階の議論にまで踏み込み、民法の大学者の我妻栄先生が部会長を努めていた当時の原子力災害補償専門部会の「原子力事業者に重い責任を負わせて、被害者を泣き寝入りさせないようにするとともに原子力事業者の賠償責任が事業経営の上に過当な負担となりその発展を不可能にすることのないよう」「損害賠償措置によってカバーしえない損害が生じた場合には国家補償をなすべき」との答申を引用する。これには墓の下の我妻先生もさぞかしびっくりされているには違いない。
「一体何を信じたらいいのか」という言辞を発することが許されるのは本来、無垢の民であろう。この言辞を地方公共団体の長たる知事が発することには強く違和感を感じる。国の言葉を盲信して県民を導びこうというのか。違うだろう。単に国の言葉を言質にしているにすぎないのだ。この発言の主である古川康佐賀県知事が頻繁にマスコミに登場している。昨日のNHKの番組でも古川知事が国に不信感を持っていることが喧伝されていた。目まぐるしく変わる国の原発政策。国策として推進された原発の是非を地方公共団体が判断するのは荷が重すぎるというのか。しかし古川知事は国からの施策の独立をマニフェストに掲げていたのではなかったのか。不可解である。ここで広瀬隆氏の腐食の連鎖風に古川氏の経歴人脈を辿ると。古川氏は自治省官僚出身。氏の御尊父は何と元九州電力幹部社員で玄海原発エネルギー館の館長を歴任した。原発に逆風を送る知事の多い中、古川知事の動向が全国誌で喧伝されているのに合点がいった。