ここ最近で絶えない話題のひとつに「尖閣問題」がある。
さすがに静観していた人たちも、ネットで流出された動画、或いは相次ぐ仙石さんの火に油を注ぐ様な発言で
国民全土に、沸々と怒りに似た感情が出てきたことを感じる。

各メディアでもこの尖閣問題を議題とし、専門の方から評論家まで可能な限りのコメントをしている。
10月2日に行われた中国に対する大規模な反中デモも、放送されていないところを見ると、この国も隣の独裁国と
何一つ変わらないということがよく分かる。

当然、インターネットの中ではうわさとうわさが交差し、事態はすでに収集がつかない状況になっているんだろうな。
テレビ番組では専門の方が、怒りもあらわに今こそ日本国民が立ち上がる時だと視聴者を煽っている様にも見えた。
周りのタレント達も自分の意見の代弁者を慕うように、惜しみなく拍手を送っている。
挙げ句の果てには、もし戦争になったらといった仮定をたて、どうするべきかを得意げに話している。
こういった無能な言葉に触発される現代の若者は少なくないはず。
事実、インターネット上でも、中国と戦争になった場合は日本は勝てるのかといった質問さえ飛び交っている。
中でも多く目に止まった意見は「アメリカが守ってくれる」「歴史上で中国に敗北したことはない」というこの2つだった。

例えばこの2つの意見を別のことに置き換えて考えてみてほしい。
自分は強いのだと過信した少年が負けたことのない人に胸ぐらを捕まれたのでケンカをしようとしている。
しかも、いざとなったら兄に泣きついて助けに来てもらうから問題ないと。
単純に考えて強い者の考え方とは逸脱している様にしか思えないし、現代において戦争をする理由になるのかどうか。
何よりも、この日本には純粋な愛国心しかない。そして日本人である前に人間であることに重きを置いている様に見える。

実際に戦争が起きたとしても、兵隊として志願する人なんてほんの一握りのものだと思う。
その証拠として、平成18年2月「外国から侵略された態度」の調査で「自衛隊に参加して戦う」と答えたのはわずか6.9%しかいないのだ。
この数値は4年前のものであるが、情報操作等で大きく変動する可能性はあったとしても、死にたくないと思うのは誰でも同じなはず。

かつて第2次世界大戦の頃、僕たちの祖父母は戦争というものに苦しめられた。
僕の祖父は若くして軍隊の学校で学び、厳しい訓練を積んだ後に海軍として戦場に渡っている。
無情にもその後は特別攻撃隊となり、突撃直前で移動となった。
今も健在の祖父母は、少ない年金で細々と幸せに暮らしている。

彼らの幸せを奪う権利はもちろん誰にあるわけでもないし、またしても戦争で苦しめるなんてことはあってはならない。
もしも戦争が起きて、僕の身近な人たちを苦しめるようなことになれば、僕は中国も日本も絶対に許さない。

著名人の中でも異なった意見を伝えようとしている人もいる。
とある著名人が今こそ日本と中国は手を取り合うべき時なんだと。
この無責任にも思える発言に、一瞬腹が立つものの、話たいことの本筋は僕と変わらない。

この発言について、ネットでコメント等をしている人達は狂ったようには憤慨していた。
発言をした人に対して「頭が狂っている」「きちがい」「死ね」などと言葉が相次いで書き込まれていた。

もし戦争等になってしまったら、このネット上で死ね等と意見をしている人達はどうせ失禁しながら震えているだけだろう。
あげくの果てには戦争の影響によりネットが制限等されてオンラインゲームが出来なくなったら狂い暴れているのか。
もしくは真っ先に戦場に向かい、無駄死にしているのかもしれない。

メディア等で国民を煽るような意見は絶対にゆるせないが、知りたいといって知る人間にも自己責任は必ず生じるものである。
中国を罵倒し、ネットから拾ってきたコピペで知的な人間を演じている。※そもそもネットの情報が正しいと思い込んでいる。
責任は誰もとらないし、ポリシーも何もない。
まさに今の日本は「馬鹿にされたらゆるせない」という精神年齢の低いレベルまでにきているように思う。
プライドも何もないのである。
音楽でもマンガでも、今はネットで溢れかえっている。だけど、その情報はあくまで断片的であり、かろうじてそのものを理解できるかできないか、だけのことであった。
そもそも、音楽やマンガ等は、その作者(クリエイター)を讃えるものであり、我々は客だという傲慢な発言者に限ってお金を出して物を買わない主義の人が多いように思う。
それに対してわかった口を聞き、ロマンのひとつも語れない人たちが、今匿名をいいことに無責任な発言をしているようにも思える。

実はこの思いについては、自分でもなかなか心がすっきりせず、別の発信方法について、先日チャレンジをしてみた。
ネットラジオを配信し、このニュースの問題から様々な思いをただただ話続けた。

方法としては、ネットラジオを配信しながら掲示板でリアルタイムでの意見を受け付けていた。
ただただ話を続ける僕に対して、思ったよりも罵倒は少なく、むしろ何故か賛同する意見まであった。
スカイプを準備し、常に会話も受け付けていたりもしたが、リスナーは登録はしてくるも、かけてくる人は最後までいなかった。

全部で5回程度の配信をしたが、とても協力的なコメントもよく目についた。
※ここで言う協力的なコメントとは、理屈を並べるも決して批判的ではなく、建設的に話を進めて行く上での、参加型ネットラジオとしては必然的なコメントという意味です。
当然、意味不明に罵倒もされたりもしたけど、スレッドからコメントの削除方法を必死に教えてくれる人もいた。
余談ではあるけど、そのネットラジオでは僕は年齢を含めてほとんどの素性を明かしているにもかかわらず、何故か「少年」と呼ばれていた。
リスナーも徐々に増えていき、結局最後には辞めるにも寂しいとまで思えた。
※辞めた理由に、多数のリスナーから話題がヘビー過ぎるから普通の話をしてほしいと言われたのもある。

結果、勉強になったことはネット等のコメント(匿名の場合に限る)は客観的思考が非常に強いということ。※ネットラジオは対DJであり、リアルタイムにレスポンスがある為、主観的な意見(ストレートな感情)が掲示板の匿名コメント等よりも多いように思った。

客観的過ぎる意識は、話し方や考え方が現実と混同し、今とんでもない未来を作ろうとしている。
ただただ僕はそのことに対して、危機感を感じてしまう。
こんなことは単におせっかいで終わってしまうかもしないが、もしこの世界に戦争が起こるのだとすれば黙っているわけにはいかない。

いまこそ、僕自身も含めて、強い考え方を持たないといけないと感じている。





最近、いじめが原因で自殺をした女子生徒がいたらしい。
その女子生徒は母の為に編んでいたマフラーで首をつって死んでしまったらしいです。

この話を見て、色んなネットでの書き込みを見ていたら「可哀想」とか「信じられない」
という言葉が飛び交っていました。

この他人事の様なコメントで僕は心の底から怖くなった。
いじめなんてもんは会社でも行われてるし、自分が小さい頃通っていた学校でもあったこと。
それを自分の生まれ育った環境ではなかったように、周りに関与した人間は死刑なんて言葉を
残している。

はっきりいってこの匿名で意見をいう2chのようなものであれば、小学生だってそれはいけない
と言えてしまうものである。
一番ネックになるのは、今いじめられている子をかばえば、次は自分がいじめられるのではないか
という恐怖からなっている。
所詮、匿名でネットの書き込みをしている人間達なんて野次馬のぼやきごとにすぎない。

大人は大人の社会で生きていて、子供は子供の世界で生きている。
大人が正論をいくら熱く語ったところでなんの影響もないことは確かである。
少なからず、ネットという匿名の場で偉そうにいじめについて批判している人間が現場に
立ったところで何も言えないようにしか思えない。

このいじめの問題に関しては、コメントの中に担任の教師を死刑にしろといった意見があった。
それも多数。

おそらく、このコメントをしている人間は小さい頃、なんらかのカタチでいじめに関与をしてきた
のか、とりわけ特別な感情があるのかもしれない。

ここで教師の立場に立てる人間なんていないのだ。
いたとすればネット掲示板等でまわりから叩かれるだけ。いわゆる少数派としてディベートすらできない。
人間は即座に善か悪を判断し、大多数の意見と自分の意見が同じであれば思っていることを
口から発するというロボットでしかない。

そう、人は言ってることとやっていることが違う。それが人です。

例えばネット上でよく見受けられる話し方。
長い言葉をすぐに略したり、共通の暗号みたいなものを使う点に関しては、ただ単に
個人を特定されたくないという思いから、ネット上で個人を特定されない為の習性としか思えない。
きもちわる。

このネットワーク上で自分の意見と同じような物が見つかる。そしたらそれを指示する。
そしてそれがオリジナルな自分だと信じる。
本当はわかっているんだけど根本の自分から抜け出すことが出来ない。
だけども社会からおきざりにされることが悲しい。

匿名でもいいから社会の一つとして生きて行きたい。
それが結局、多数派として生きざるを得ないこととなる。(結局なんて言えばいいかわからないいだよ。)
だけども自分は同窓会などに顔をだせるような生き方をしていない。
なによりも自分に自信がない、やりたいこともない。

前の職場で鬱になった人がいた。
その人が言うには、責任感や思い詰めるとなる病気なんだといっていた。

でも俺が見ている限りではその人は汚い物は触らない、それに面倒くさいことは人に任せると
いったただの怠け者だった。
汚いこと、みんながいやなことをするのはいつも女性を始めとした回りの人間だった。
そしてそういう人達は決して鬱になったりなんてしない。
そういう人達はきっと信念があるからなんだろうって思う。
やりたいことや、めざしているものが必ずあった。

俺は絶対に鬱になんてなりたくない。

本当にいじめということに対して考えてほしい。
いじめている人間達は親からの愛情を受けていない傾向にある。
それにくわえて、その環境を察して向き合っている人間がいない。

不景気は人を弱気にさせる。
教師を辞めさせられたら、家族を養って行けない。
それが人を消極的にさせるんだね。

「草食系」男子とよく言われる時代だけども、きっとみんな自分に自信がないだけなんだよ。
自分に自信があったらはっきり言ってだれでも肉食だよ。
牙がないヒョウは狩れない。それをわかってるから狩ろうとしないだけだよ。
狩ろうとして失敗したらかっこわるいから。でもそういう風にしつけたのはみんなのママやパパだけど。

この色んなニュースが出てくる中、ネット上のコメントを読んでしばらく僕は考えた。

そこで頭から離れなかったのは、昔お母さんがいった「中立の意見を考えなさい。」という言葉。

はっきりいってこんなに難しいことはなかった。
当然優しい人や基本的な女性はこの中立的な言葉を考えれたるするらしいですが。

僕が中学か高校の頃、バレー部に所属をしていた。
試合があったその日、試合中に相手の朝鮮学校のバレー部員にぼろくそ言われたのだった。

「つけもの」「たくわん」「ばか」

試合の結果は勝ったのか負けたのか正直覚えていない。
でも、悪口の合間にたくわんとかつけものとか出てくるのは納得ができなかった。

まあ、とにかくうちのチーム全体はこんな挑発的な試合に完全に頭にきてしまって
何なんだこの朝鮮チームはと収集もつかない状態だった。

家に帰ってすぐに母親にこういうことがあったんだ、と言った。
そして、あんな口の悪い学校はつぶれてしまえばいいとも言った。
あげくのはてには、朝鮮や韓国や中国について国民性でさえも母の前で馬鹿にしていた。

そうすると母親は涙を流しながら「まさか自分の息子がこんな愚かなことをいうなんて。」
と言った。
とにかくびっくりして、母に「は?俺の言ったことを聞いてた?もともとは彼らが俺らに
してきたことやで?」と言った。

そしたら母は「だとしたら何?あんたはなんで人を見下すことができるん?」
僕は「え」としか言いようがなかった。
後から話せば母の言うことはこうだった。

どんな状況でも、人は人を見下す権利はない。そして国民性を受け入れることの出来ない
人間にコミュニケーションはない。そして、なにより自分達には歴史があり、その中では
他国の人間達と手を取り合ったから今ここにいるのだと。

言われてみれば、日本人でも他国の人間に助けられたことはたくさんあっただろう。
それを忘れてしまうような日本人に未来も将来もないと母は言いたかったのだった。

とりあえず反省した。

国民性の話については父にも怒られたことがあった。

日本のドキュメンタリーを見ていた小学生の日。

恵まれない国の話がテレビで放送されていた。
その内容は出演者も含め、編集についても可哀想と言えといっているような
内容だった。

小学5年生の僕はそのテレビを見ながらつい「ご飯も食べれないなんて可哀想やな。」と言ったら
父が「その可哀想と表面だけで口にする能天気な考え方やめろや!人のことを見下すな!」と
怒られた。

僕ははっきりいって怒られてる意味がまったくわからなかった。
母に関しても父に関しても、まったく大人の価値観と子供の考え方を同じにしてもらっちゃ
困る困る。

僕は将来、子供にわかるように説明できる大人になれるようにたくさん本を読んで
粋がって生きたいと思います。

そんな母にある質問をしたことがありました。
「もし、自分の大切な物を誰かに壊されたら仕返しするやろ?」っていったら
「仕返しなんてしない。ただ悲しい時間が過ぎるのを待つだけやで。」と。

これについてもまったく意味がわからなかった。

事実、家の家族は妹も含め4人とも車に轢かれた過去をもつ。
どれも、居眠り運転や信号無視など、車が悪い件ばかりだった。

それでも母は大事に至らなくてよかった。としか言わない。
そして印象に残るのは、母の言葉で「こんな悲しいことはあってはならない。とにかく人は
加害者になってはならない。今回は被害者だっけど、とやかく言うのはやめなさい。いつ
私たちは加害者になるかもわからないのに。」と。

まあ、母はめちゃくちゃ車の運転が下手で周りの人間たちから運転するのをやめなさいと
いわれたくらいなので、そんな母の言葉としては説得力あります。










































































話変わるけど、最近芸人が歌を競う番組があるねんけど、あれって見てるひと楽しいの?
たのしいとしたら耳くさってんちゃうかな。









僕が15歳の頃、旅に関わる書物を図書館で読みあさった時がある。
その旅の本は、何処の国でいくら使い、何処のホテルで泊まり、何処で誰かと出会ったという
内容だった。

例えば、中学生の頃の自分からすれば、アイスクリームが100円で買えるということでしか物の
奥行きを感じれない。
それなのに、異国では10円で飯が食え、どうやら作者は興味を示したことしかしない。
気が向けばカメラのファインダーをのぞき、構図を練る。
そんな暮らしは中学生の僕にはとてもとても遠いことのように思えた。

僕らは楽しいことが大好きで、めんどくさいことが大嫌いだった。

15歳のある日、つき合っていた大好きな女の子から、ポケベルでメッセージが入った。
それはとても残酷な内容でとても思い出せるようなことではない。
多分きっとそれがまわりの人達がいう失恋ということだったんだと思う。

だけど涙も出ないし、まるで自分が少し大人になったような気持ちになった。

それから何日か経って、友達と一緒に夜中の学校のプールに忍び込んだ。
友達はみんな素っ裸になってプールに飛び込んだ。
警察が来ないようにとても静かに飛び込んだ。

その中で、服を着たままプールに入らない友達が10人の内、2人いた。
話を聞けばこんなくだらないことをして、後悔をしたくないと言っていた。
その彼らに、僕らは入らないことの方が後悔するんだということを説明し、
納得してもらえるまでに20分程かかった。

最終的にその友達2人はプールに静かに飛びこんだ。
でもよく考えてみれば、どうやってたった20分間で僕らは説得したんだろう。。
考えてみれば、夜中にこっそりプールに忍び込むことが正しいなど、今の僕はどうやっても
説得はできない。

そしてその友達はどうして納得をしたんだろう。
青春は知っている。
会話は内容よりもコミュニケーション。
それは熱意というものなのかもしれない。

僕らが、今すぐにプールに入るべきだと説明する熱意に負けたの
かもしれない。
誰だって、自分が本当に正しいのかなんて疑問を持つもの。
そうでなければ何一つ大きくなんてなれはしない。

そんなことを繰り返していると、自然と失恋で負った心の痛みは消えるもの。
それをあの歳にして、知っていたのだった。

今、僕は思うことがある。
もしかすると、失恋はいいことなんじゃないか。ってこと。

人は基本的に一人でものを考え、誰かに相談をする。
そして意見が合わないことがあれば衝突もする。

そう、無理に誰かに合わせる必要なんてない。
そう思うことによって「自分」というものが形成される。
とにかく、かつては誰もが一人だったということ。

小学校低学年の頃、父に相談したことがあった。
これは後にも忘れられない会話のひとつになった。

俺「○○君は△△君のことを嫌いみたいやねん。もしかしたら、俺のことを嫌いだと云う人はこの世の中にいるの?」

父「もちろんいるよ、きっと今もいるんちゃうかな。」

俺「なんで?俺は誰かにひどいことを言った覚えはないねんで。」

父「おまえには個性がある。その個性はたまに人とぶつかるからな。」

俺「え、じゃあこうして生きてるだけで人に嫌われるん。そんなん嫌や。」

父「それはしゃあない。誰だって誰かに嫌われる。それは当たり前なんや。」

俺「じゃあ平和なんて言葉嘘やん。そんなんあるわけないやん。生きるのんむずいやん。」

父「これだけは言っておく、嫌われることは悪いことじゃないからな。そこを間違えるな。」

俺「は?」

ある日このような会話をかわしたことを忘れた日はない。
嫌われることは悪いことじゃない。

正直、20代後半を迎えて、この言葉に何度救われたことか。
本当に覚えててよかった。

青春とは、いつも自分の身なりを気にして、何をしても誰かのことを思ったりして、
それでもって好きな人には毎日好きでいてほしいものでした。

だけど、何か熱意を持ってことを話すことができれば、失恋もまた新しい始まりに
なっていった。
それが本当の青春だとすれば、僕らはもっとどんどんチャレンジしないといけない。
もっと熱意を持たないと行けない。
そして、もっと昔を思いださないといけない。

それのエネルギーは失恋でさえも、かき消すことができる唯一の毎日ではないかな。



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