私のホームページ(ミステリースポット)に「高島・白石島のイワクラ」という論文をアップしました
以下は、その抜粋です。詳細は、ホームページ「ミステリースポット」を見てください。
※本レポート(論文)のリンクおよびシェアは自由ですが、画像や文章を抜き出しての引用はご遠慮ください。 

■まえがき
2016年5月28日、29日に1泊2日のイワクラツアーが行なわれた。
イワクラ学会が、岡山県笠岡市の高島・白石島を訪れるのは、11年ぶりになる。
イワクラ学会では、発足当時にこの高島・白石島に着目し、多くの論文が会報に残っている。
これらの論文を参考にしながら、高島と白石島のイワクラについて考察する。

■高島のイワクラ
笠岡港で集合し、11時20分発の連絡船で高島に向った。
高島港では、高島在住のイワクラ研究家の薮田徳蔵氏と薮田氏を手伝っておられる中村美智恵氏と山口伸治氏が出迎えてくれた。
薮田徳蔵氏は、この高島のイワクラを研究し、説明看板を立てたり、整備されたりしている方である。
11年前のイワクラ学会ツアーでも案内していただき、今回も私たちのツアーのために草刈などをしていただいた。
薮田氏はご高齢ではあるが、二人の若い方が跡を継いでいただけるのではないかと心強い思いがした。

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■西のイワクラ群(子妊石)
話を高島のイワクラに戻す。
この島の中央には、「王久(おく)遺跡」とよばれるイワクラ群があり、その「王久遺跡」を中心として東西南北にイワクラ群が存在する。
今回のツアーでは、「王久遺跡」と西のイワクラ群を見学した。
高島港から南西に400メートルほど歩くと、巨石が見えてくる。(北緯34度25分38.37秒、東経133度30分09.38秒)

「亀石」、「茸石」、「陽石」と名付けられた巨石を見ながら登ると、見晴らしの良い山の頂上に、大女の子供産み落し伝承の残る「子妊(こはらみ)石」がある(北緯34度25分39.12秒、東経133度30分07.52秒)。
巨大な女陰石である。
この「子妊石」の前で薮田氏から説明を受けた。
東西幅約6メートル、南北幅約8メートル、高さ約5メートルの「子妊石」は、台座の上に3点のみで接触して据えられていることなど、「子妊石」の構造を詳しく説明していただいた。

【子妊石】Photograph 2016.5.28

この「子妊石」には、大女の子供産み落し伝承が残っている。その伝承は、以下のようなものである。

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「子妊石」の形状は、窪みが複雑に形成されていて異様である。
風化か波の浸食か、と悩んでいると、武部正俊氏の調べでタフォニではないかということになった。
タフォニとは、海水が岩に浸み込み乾燥によって塩が結晶化するときの膨張で岩が徐々に割れていく現象である。
海外線のみならず潮風が当たる山の上でも起こるようである。
しかし、周りの岩石と比べてこの「子妊石」だけ、このタフォニ現象が激しいのはなぜであろうか、やはり、別の場所から運ばれてきたのであろうか。
薮田氏の話によると、「子妊石」の頂上部と南の下部に牡蠣殻が付着していたそうである。
そうなるとこの「子妊石」は海岸から標高50メートルの位置に人の手で持ち上げられたことになる。
「子妊石」のスリットは沖の「天目岩」を指しているそうである。
この「天目岩」は、江戸時代(安政)に外国船を迎え撃つ台にするために破壊されてしまったそうであるが、薮田氏のスケッチ図によると、高さ36メートルの塔のような形状をしており、人工島の可能性もある。
また、伝承に出てくる東の海岸の金光には、「子妊石」と対となる男根石があったが石材利用のため破壊されてしまったそうである。

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■王久遺跡(天津磐境)
次に、「王久遺跡」に向った。
一度山を降り、隣の山を登ると、「どんび石」と「萬古石」と名付けられたイワクラが現れた(北緯34度25分43.11秒、東経133度30分19.35秒)。
「どんび」とは、地元の方言で男根のことであり、イワクラの形状そのままに薮田氏が名付けたようだ。
女陰である「萬古石」の割れ目から「どんび石」を眺める方向は、ぴったりと0度(真北)であり、人為的に配置されたと考えられる。
薮田氏によると、もともと存在していた「萬古石」の東側の石に対して、西側の石と「どんび石」を運んできて構築しているということである。
【どんび石】 Photograph 2016.5.28
【萬古石】 Photograph 2016.5.28
次に、「岩戸石」と「踊り石」という巨石に向った。
この2つの石の名前は、古くから伝わる名前である。「岩戸石」は、台座の上に立方体の巨石が重ねられている(北緯34度25分42.12秒、東経133度30分21.25秒)。
案内していただいた中村美智恵氏は、この岩の上に寝転ぶと気持ちがよいので、ときどき訪れるそうである。
「踊り石」は、台石の上に乗せられた巨大な岩石で亀のようにも見える(北緯34度25分41.11秒、東経133度30分20.05秒)。
この上で神にささげる踊りを踊ったと伝わる。

最後に、「天津磐境(あまついわさか)」に向った。
山の頂上部に造られたストーンサークルである(北緯34度25分40.21秒、東経133度30分22.06秒)。
2段または3段の石組みで囲まれている中央部で祭祀を行なったのであろうか、西のイワクラや東のイワクラが見渡せる高島の中心であり、重要な場所であったと考えられる。

【天津磐境のストーンサークル】 Photograph 2016.5.28

船の時間の都合で、高島の滞在はここまでであった。
薮田氏と再会を約束して別れた。
船に乗り込むと、乗客がこの島からこれだけの人が乗り込んでくるのは珍しいと呟いた言葉が耳に残った。
この高島に人が訪れるのは希なことのようである。
高島の昔の姿は、禿山であったが、水が豊富な島であったそうだ。
それが今では木々が生い茂り、ジャングルのようになっている。
薮田氏達が伐採などの整備を行なっているが間に合わず、イワクラは緑の中に、どんどん沈んでいっている。
このままでは、誰もイワクラに近づけなくなり、忘れ去られてしまうのではないだろうか。
早急な対策が必要である。 【高島の案内図 薮田徳蔵氏作】

■白石島のイワクラ 白石島に渡った私達を待っていてくれたのは、白石公民館長の天野正氏である。
天野正氏は、11年前のイワクラ学会ツアーでも案内していただいた方で、この白石島のイワクラについて最も詳しい方である。

■比丘尼岩
まず、港からすぐ東の山の中腹に見える巨石に登ることにした。
38メートルの高さに明釣神社が鎮座している。
もちろんこの神社は、50メートルの高さにある山の上の巨石を祀る社である。
その巨石は、形が頭巾を被った尼僧の姿に似ている事から「比丘尼(びくに)岩」と名づけられ、それが「みくに」に転訛し、「皇国岩」という字が当てられたりもしている(北緯34度24分32.19秒、東経133度31分12.58秒)。
高皇産霊(たかみむすび)尊の御神霊が宿るとされている。

「比丘尼岩」の山側は大きなV字の割れ目を形成している。
その隙間から「明石小山」と呼ばれる島が見え、冬至になるとその方向に夕日が沈むという。
私が計ったところ、割れ目の方向は255度で、割れ目の大きさを考慮すると、冬至の日の入りの太陽が入りそうである。
そして、「明石小山」と「比丘尼岩」は、260度の方向に1.4キロメートル離れており、その中間点に「恵比寿神社」が鎮座している(北緯34度24分29.46秒、東経133度30分50.70秒)。
意図を感じる配置である。
その「明石小山」は、頂上に丸石が配された小島で、昔その上部が光っていたという伝承もあり、海に浮かぶイワクラである(北緯34度24分25.16秒、東経133度30分18.63秒)。

【比丘尼岩】 Photograph 2016.5.28

■日計石の発見
この「比丘尼岩」を降りる途中で、早くも大きな発見があった。
不思議な形をした石組を見つけたのである。
石と石の間に奇怪な形をした突起物があり、そこに上部の菱形の隙間から光が差し込んでいる。
日時計ではないのか!! みんなが色めき立ち、学会員は各々のスタイルで調べだした。どうも周りの石面が2至2分を示しているようである。
イワクラ学会として、この石組を「日計(ひばかり)石」と名付けた(北緯34度24分31.79秒、東経133度31分11.99秒)。
この日は、後のスケジュールもあるので、これ以上の調査をあきらめ山を降りた。
ところが、その夜、岡本静雄氏は、午前3時に起きだして、この「日計石」に朝日がどのように入るかを観察しに行かれた。
そして、観察に邪魔となる「日計石」の周りの小枝を伐採して帰ってきたのである。
なんとも、イワクラ学会らしいエピソードである。
私たちは次の日に、再び、この「日計石」を訪れ、樹木から切り離されてあらわになった石組みの各面が、夏至、春分・秋分、冬至の方向を指していることを確認した。
そして、中心部分にある突起物と太陽の関係については、定点観測を行なう必要があるので、天野氏にお願いした。

【日計石 中心部の不思議な突起】 Photograph 2016.5.28

【日計石 上部 方位図】 Photograph 2016.5.28

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この後、お多福旅館で懇親会が開かれ、ツアー一行は、海の幸に舌鼓を打った。
次の日に雨が降らないことを祈って、就寝したのだが、残念ながら朝から雨であった。
もちろん、雨だろうが嵐だろうがイワクラ学会のツアーは決行される。雨支度を済ませて、旅館の裏から山に登った。

■波止岩
「小波止(はと)岩」を通過して、いっきに400メートルほどの距離を登って、「波止(はと)岩」に到達した(北緯34度24分15.77秒、東経133度30分49.17秒)。
標高64メートルの尾根の途中に突き出た見晴らしの良い巨石である。
「波止」とは、海に突きだした構造物、つまり「なみどめ」のことであり、縄文海進で海面が今より高く、海が島の奥深くに入り込んでいた時代に、波よけの意味を込めて付けられた名前なのかもしれない。
この巨石には、岩上に登れるように足かがりの穴が穿ってある。岩の上面に登ると、多数の盃状穴が造られていた。
盃状穴は、石を少しずつ削って窪みを作ったもので、再生や不滅の信仰として世界中で見られる。
日本では縄文時代からイワクラに彫られていたものが、古墳時代に棺に彫られるようになり、昭和初期まで神社の手水石や灯篭等に彫る事が続いていた。
子孫繁栄や死者蘇生を願ったものと考えられている。
古代人は、この岩の上で、どのような祈りを込めて、この穴を彫ったのだろうか。
しばらく、目の前に広がる景色を見ながら古代に思いを馳せた。
また、この「波止岩」の南側に小さな2つの石が置いてあるが、この配置が家島諸島の西島にある「コウナイの石」に似ている。
このようにイワクラを探索していると、そこに規則性や類似性が見て取れる。

【波止岩】 Photograph 2016.5.29

その「波止岩」から30メートルの位置に、台座の上に乗った亀の形をした石があった(北緯34度24分14.96秒、東経133度30分48.48秒)。
この亀石の向きは85度(東)で、山の上から朝の太陽を見つめていた。

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■赤不動のイワクラ
次に「大玉石」に向うが、その前にルートを外れて、「赤不動のイワクラ」に立ち寄ることにした。
「魚見台」から尾根道を200メートルほど歩くとアプライトおよびペグマタイトの岩脈が露出している場所に着いた。
ここから西の谷に向って35メートルの高さを下る。
距離的には100メートル程ではあるが、道はなく天野氏の案内がなければ見つからなかったであろう(北緯34度24分02.06秒、東経133度30分33.56秒)。
「赤不動のイワクラ」は、高さ8メートル以上もある立石に十字の割れ目があり、その右下の部分がずれて隙間が空いている。隙間の中に人が入ることができ、その隙間は上の岩石が屋根となり、雨風を防げる場所となっている。
ペグマタイトの岩脈もあり水晶が採れたようである。
古代人にとって特別な場所だったと考えられる。 上の岩石とずれた岩石の間に赤不動が祀られている。
不思議なことに隙間の奥から参拝する形になっている。
この巨石の前は西に開けた海が見下ろせる。岩の中から見る夕日は非常に美しいことであろう。

【赤不動のイワクラ 隙間の中から】 Photograph 2016.5.29

この場所で、イワクラ学会は、またまた新発見をした。
岩に巨大な窪みが彫られていたのである。
何度もここに来ている天野氏も気がつかなかったそうである。
直径約15センチメートルの真円であり、人が造ったものである。
同じようなものを岡山県牛窓の八間岩で見たことがあるが、それよりも形状の精度が高い。あまりに整っているので、近年あけられた可能性も疑ってしまうほどである。
巨大な盃状穴であろうか、目的は不明である。 イ
ワクラの前の石にもきれいな盃状穴が3つ彫られていた。
昔の人が岩石に対して何か働きかけようとした、そのような意志がひしひしと伝わってきた。
古代人がこの立石を割って岩をずらした可能性もあるのではないだろうか。

【赤不動のイワクラ 大きな盃状穴】 Photograph 2016.5.29

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■鬼ケ城と鎧岩
雨がまた降りだしてきた、今回は、立石山には向わずに、250メートル先の鬼ケ城に向った。
11年前に、渡辺豊和氏と柳原輝明氏がピラミッドではないかと指摘した山である。
山の形が自然に形成されとは思えないということである。 南から見ると、頂上部に岩石が無造作に集積された様子であるが、近づくと一つ一つの岩が特徴のある形をしていて面白い。

雨が激しくなってきたが、ここでやっとお昼弁当を食べた。
山の頂上で傘をさしながらの昼食は、私も初めての体験であった。
雨のため、頂上での調査は、そこそこにして、北側へまわった。
そこには、天然記念物の「鎧岩」がある(北緯34度23分59.88秒、東経133度30分54.02秒)。
「鎧岩」は、アプライトおよびペグマタイトの岩脈が頂上の岩面を覆っているもので、鎧の直垂に似ていることから「鎧岩」と呼ばれている。
アプライトおよびペグマタイトの岩脈が急な斜面と平行に存在し、その外側だけ割れて落ちて、このように残ったというのであるが、そのようなことが自然に起るのであろうか。
うまくそのような岩脈があったとしても、その外側を人が剥がし落としたと考える方が考えやすい。
もちろん、自然に起りにくいので天然記念物なのだが、これは、自ら苦しい説明だと認めているようなものである。
また渡辺豊和氏は、恐るべき技術で接着された葺石ではないか(会報2号)と推論されているが、ローマ時代には現在よりも強固なコンクリート製の建物が建てられ、古代エジプト時代にはモルタルが存在していたことから、日本の縄文時代にセメントがあったとしても何ら不思議ではない。
ピラミッド山を白い化粧タイルが覆い太陽に照らされて光っていたのではないだろうか。

【鎧岩】 Photograph 2016.5.29 【鎧岩】

鬼ケ城の北側は、南側と全く異なっていて急斜面である。
下山する道では、まるで空中を歩いているような気分になった。

中腹まで下ると岩窟に着いた(北緯34度24分01.27秒、東経133度30分53.74秒)。
天野氏によると、この岩窟は明治時代には、這いながら山の裏側へ抜けられたという、この山の裏側までの距離は少なくとも100メートル以上はあり、なんとも信じられない話である。
ピラミッドの機能に関係があったのだろうか。
また、岩窟の入り口には、神明大権現の鳥居が作られていて、戦後の頃までは老婆がここに籠り、産後に乳が出ない人に対して乳揉みを行なっていたそうである。

さらに下ると飛竜神社に着いた(北緯34度24分02.10秒、東経133度30分53.22秒)。
この神社の前の岩には、獣か鳥の顔が線刻されているようだ。

■真名井と磐鏡
次に開龍寺へ向った。
「真名井」と名付けられた場所は、巨石の下の空間からきれいな水が湧きだしている(北緯34度24分10.12秒、東経133度30分47.51秒)。
この島に豊富な真水があり、古代から数多くの住人を抱えることができる島であったことがわかる。
また、この巨石の底面には女陰の形になっているようだ。

この「真名井」の水は、「磐鏡」を御神体とする磐鏡神社に献上されたと伝わるが、磐鏡神社は今はなく、その「磐鏡」が何処にあるのか不明となっていた。
手かがりは1943年に撮影された写真のみで、島の人も探していたが見つけられなかった。
1943年の写真の「磐鏡」は光を反射しており、鏡石であることがわかる。
それが11年前の2005年2月に行なわれたイワクラ学会の白石島ツアーで、60年ぶりに発見されたのである。
イワクラ学会の面目躍如といったところである。
その「磐鏡」は、真っ平らな面を持つ、まさに鏡石である(北緯34度24分10.13秒、東経133度30分48.67秒)。

【磐鏡】 Photograph 2016.5.29

■開龍寺の奥の院
「開龍寺の奥の院」は、806年に空海が唐から帰国するときに白石島に立ち寄り、巨岩の下で37日間の修行を行った場所と伝えられている(北緯34度24分09.91秒、東経133度30分46.24秒)。
 『小田郡誌』(昭和16年 小田郡教育委員会)には、以下のように書かれている。 「神島外村白石島にあり。僧空海求法の為入唐し、眞言密教の蘊奥を極め大同元年帰朝の際舟掛りせしに、此島の山水明媚にして幽邃閑雅なるは、密数の弘通に相應の霊地なりとし、三七日の間巨厳の下にて、大満虚空蔵菩薩の法を修め、自性清浄の大曼荼羅と、自然に荘厳せる不二の霊地なりとて、興教済生の記念の為、自己の像を彫刻し、四方上下を結界して安置す。後源平合戦の時、平氏の残黨當島に逃れ来りしを、源氏の兵追躡し来り、火を放ちて焼き殺せり。依りて其追福の為空海の靈跡に一宇を建立し、弘法山慈眩寺と命名せり。これ當寺の濫觴なり。後寛永二年領主福山城主水野美作守勝慶當島を巡見の途次参詣せしに、光明赫灼として眼を射れり。勝慶歓喜して堂宇を再建して祈願所となし、空海自作の像は秘佛とし、別に祕鍵大師像を安置して開帳佛とす。 盖し祕鍵大師は、嵯峨天皇の勅を受けて厄病を退散せし像なるを以てなり。かくて教海山開龍寺と改稱す。寛保三年神島四國八十八ヶ所を開くや、當寺を以て其の奥の院となし以て今日に至る。眞言宗に属し笠岡遍照寺の末寺たり。」
もともとは、岩屋であったところに、慈眩寺、開龍寺と変遷してきた。
現在の建物は、岩にピッタリと収まっているが、この変遷の中で、建物の背後の岩がどのように削られてきたかは、良くわからない。
建物の奥まったところには、水が湧き出しているが、窮屈な思いをしないと汲めない。
やはり、ここの建物を取り外した状態が本来の正しい姿であると思われる。
そうなると原初の状態はどのようなものだったのか、堂宇を建てるときに、大きく岩石に手を加えていないと仮定すると、巨大な岩が水平に突き出た岩屋があったことになり、自然に形成したとは考えにくい。
古代人がこの聖地に岩屋を造っていた可能性も考えられる。
また、この岩屋の開口部が向いている方向には巨大なイワクラが見えるので、そのイワクラの遥拝所だったのではないだろうか、そして、空海は、その異様な光景に惹かれたのではないだろうか。

【開龍寺の奥の院】 Photograph 2016.5.29

直ぐ隣に、岩盤に人頭大の窪みがあり、頭を入れて祈願すると願いが叶うという「不動岩」があるが、これは赤不動のイワクラで見つけた巨大な盃状穴と同じものかもしれない(北緯34度24分10.37秒、東経133度30分47.18秒)。
また、市郎兵衛の力石もあるが、とても人が持ち上げることのできる大きさではなく不思議な伝承である。高島の大女伝説と同じように岩石を動かす技術を持った一族がいたことを意味しているのかもしれない。

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この開龍寺の参道は、奥の院の岩屋に至る。
その岩屋の周りには、泉や鏡石があり、島を見渡せる中峰の展望台までわずか100メートルの距離である。
夏至の日の出が差し込むこの谷奥は、白石島において重要な祭祀場であったと考えられる。
私達一行は、帰りの船に乗るために港に向った。
非常にお世話になった天野氏に別れを告げて、船に乗り込んだ。 あいにくの雨ではあったが、非常に数多くのイワクラを見ることができ、古代のエッセンスが凝縮していたツアーであった。

■おわりに
白石島の島民は、イワクラに石仏を置いて自分の家の守り仏とした。
これには、空海が開いた開龍寺の影響が大きいだろう。
しかし、島民がイワクラに興味を持ち、岩に思いを寄せていることのあらわれでもある。
またそれは、古代のこの島にイワクラを造った石工集団がいた証拠ではないだろうか。
白石島には、石切り場もあり、今でも採石が行なわれている。
採れる花崗岩は、ほんのりピンクがかった白色の岩石で「白石島みかげ」として有名である。
この島の石工の人達は、古代にイワクラを造っていた石工集団の技術を受け継いだ末裔なのかもしれない。  (了)

2016年8月28日  「高島・白石島のイワクラ」  平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報37号 2016年8月1日発行 掲載

(古代史探索家 平津豊)

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