先日、播磨イワクラツアーと称して、8名の方をご案内しました。

破磐神社、中臣印達神社、高岳神社、生石神社をまわるコースです。播磨は私の出身地ですので、地元ならではのツアーにしたいと思って計画しました。

最初の破磐(ハバン)神社は、火祭りが有名な掃除の行き届いた清浄な神社で、スピリチュアル的には不思議な写真が撮れることでも知られています。 神社に着いたとたん、謎の爺さんが我々に近づいてきて、オーブの写真を見せてきました。我々の雰囲気を感じ取って近づいてきたのでしょうが、グットタイミングです。


神社では、宮司さんが待っていてくれました。神社のお話をお願いすると、身振り手振りを加えての楽しいお話をしていただき、さらにこの神社で撮影された不思議な写真の数々も見せてもらいました。

【破磐神社、田中宮司に説明していただきました。】

この神社のご神体は、神社から1.5km離れた場所の割れ岩という磐座です。この磐座の周りが整備されたのは平成2年で、それまでは忘れ去られていたようです。

この割れ岩には、神功皇后が三韓征伐の帰りに、忍熊王の反乱にあったとき船を止めて神託を求めたところ、大己貴命の神託があり三本の矢を放った。一本目は印南郡的形に虚矢として落ち、二本目は飾磨郡安室辻井に落ち、三本目が太市郡西脇山中の大磐石を三つに割ったという逸話が伝わっています。

【破磐神社のご神体の割れ岩】

次は、今回参加された方の希望で中臣印達(ナカトミイダテ)神社を参拝しました。770年の創建とされる式内社です。

この神社の「中臣」は、天児屋根命の末裔の中臣氏のことです。中臣氏がイタテ神を祀った神社ということになります。イタテ神は五十猛のこととされています。
近隣にある姫路総社の射盾兵主神社、辻井の行矢射楯兵主神社もイタテ神を祀る神社です。この行矢射楯兵主神社にも神功皇后が三韓征伐の御首途に飾磨郡麻生山より事始めの神矢を射させられた時、その矢の落ちた所を神社としたと伝わっています。破磐神社と同類の話がイタテ神にもかぶされています。
ここでも宮司さんにお話をしていただき、さらに、お札や資料などもいただきました。お心遣いに感謝しながら、次に向いました。

【中臣印達神社には、阿波遅神社が合祀されています(異論あり)】

高岳(タカオカ)神社を参拝しました。
神社の社伝によれば、782年に坂上田村麻呂が武運を祈ったとあるので、創建はかなり古い式内社です。
始め八丈岩山にあったのを、826年に蛤山に遷し、社殿を創祀したと伝わります。
播磨国風土記に登場するイタテ神の住まう因達の神山がこの八丈岩山であるとされています(異論もあります)。ここでもイタテ神が関係しています。(ちなみに風土記では、大汝命(オオナムチノミコト)が息子の火明命(ホアカリノミコト)をこの山に棄てて逃げる話になっています) 磐座は、社殿の裏にあります。村を見渡せる丘の上に立つ磐座で、土地の人がこの岩上にて蛤を拾い福徳長寿の幸を得たという逸話からこの磐座は、蛤岩と呼ばれています。

ここで遅い昼食です。 地元のソウルフードである「かつめし」を食べてもらいました。

食事をした後、時間があったので、みなさんで情報交換を行ないました。 毎回参加していただいている方や始めてお会いする方もいましたが、このころになると、すっかり打ち解けて、旧友のようになっていました。


最後に、本日のメインである生石(オウシコ)神社に行きました。
ここは、子供の頃、良く遊んでいた場所です。

平成26年10月6日に「石の宝殿及び竜山石採石遺跡」は国の史跡に指定されました。竜山(タツヤマ)は、1700年前から採石され続け、160箇所以上の採石遺構が存在します。そのうちの31箇所が史跡に指定されています。 竜山石(流紋岩質凝灰岩)は、古墳時代中期の畿内の権力者のほとんどの石棺に使われ「大王の石」と称されました。以後、鎌倉・室町時代には五輪塔や宝塔、江戸時代には城の石垣、明治以降には近代建築物にと、絶えることなく利用され続けています。

生石神社は、大穴牟遲命、少毘古那命を珍しい割拝殿に祀っている神社ですが、なんといっても、日本三奇の一つ、石の宝殿(ホウデン)を見ていただくのが目的です。
一辺約6メートルの巨石がご神体です。この石の宝殿がどのような目的で造られたかについては、ゾロアスター教の祭壇、占星台、神殿など諸説が発表されていますが、アカデミズムは、益田の岩船や牽牛子塚古墳との類似性から石槨説をとっています。

【生石神社のご神体、石の宝殿】

神社の由緒では、以下のように伝わっています。
「神代の昔大穴牟遅(オオナムチ)少毘古那(スクナヒコナ)の二神が天津神の命を受け国土経営のため出雲の国より此の地に座し給ひし時、二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰 現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである。時に二神のたまはく、たとえ此の社が未完成なりとも二神の霊はこの石に籠もり永劫に国土を鎮めんと言明せられたのである 。以来此の宮殿を石乃寳殿、鎮の石室と言はれて居る所以である。」

これに対し、石の宝殿が登場する最も古い文献である播磨国風土記(715年前後)には、以下のように書かれています。
「大国の里。大国と号くる所以は、百姓の家、多く此に居り。故、大国と曰ふ。 此の里に山有り。名けて伊保山(イホヤマ)と曰ふ。所以は、帯中日子命を神に坐せて、息長帯日女命、石作連大来を率て、讃伎国の羽若の石を求めたまひき。彼より度り賜ひて御廬(ミイホ)を定めたまはぬ時に、大来、見顕しつれば、美保山と曰ふ。山の西に原有り。名を池之原と曰ふ。原の中に池有り。故、池之原と曰ふ。原の南に作石有り。形、屋の如し。長さニ丈、広さ一丈五尺、高さも亦かくの如し。名号けて大石と曰ふ。伝えて云へらく、「聖徳王の御世に、弓削の大連が造れる石なり」といへり。」

この風土記を信用するならば、物部守屋(-587年)が聖徳太子(574-622年)の時代に造った石と記載されており(聖徳太子が大活躍する頃には守屋は死んでいるという矛盾を含む)、古墳時代後期の石造物ということになります。

この石の宝殿を理解するには、3km真北に位置する高御位(タカミクラ)山との関係も考えなければいけません。高御位山の頂上には大己貴命と少彦名命を高御位神社があり、大国主命が降臨したという磐座が存在します。 さらに、石の宝殿を造ったときの石屑をこの高御位山に廃棄したという鯛ジャリ伝説も残っていて、深い関係を示唆しています。
なお、この高御位の麓には九鬼につらなる高御位神宮があり、そこには艮の金神が祀られています。出口王仁三郎がここで修行したという噂もあります。
石の宝殿の謎については、またあらためて自論を発表したいと思います。

この神社でも、宮司さんにお話をお願いしていました。宮司さんが我々に熱弁をふるっていると、他の参拝者が次々と集まってきてしまいました。

【生石神社、、東宮司に説明していただきました。】

この後、竜山の採石遺構や古墳、觀濤處などを見学してツアー終了となりました。
みなさん、楽しんでいただけたようで、ツアーを計画したかいがあります。うれしいです。


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