その日に備えよう | マスター・パスター晴れるやのブログ

その日に備えよう

その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」
たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、
その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。
御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。
御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」
また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」
ヨハネの黙示録4章1~11


これから黙示録の4章に入りますが、その前にまず1:19を見てみましょう。「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」ここには黙示録のアウトラインが書かれています。「見た事」とは1章の出来事で、ヨハネが栄光の主の姿を見た事です。「今ある事」は2~3章で語られた主からの7つの教会に対するメッセージの事です。「この後に起こる事」が4章から22章までのこれから起こる将来の出来事です。4:1にも「この後に必ず起こること」と書かれてあります。

今日は4章の本文には深く入らずに3章と4章の間に起こる出来事に焦点を当てて書きます。それは携挙という出来事です。
携挙というのは地上の真の教会、クリスチャンが天に引き上げられるという大事件です。その出来事はこの黙示録には直接言及されていませんが、他の聖書個所から必ず起こると断言できる出来事です。
なぜこんな大事なことが黙示録には書かれていないのかというと、聖書は全体で一冊の本ですから、他の箇所で繰り返し書かれている場合は、すでに知られていることとして省略されることがあるからです。

携挙の時期についてはいろんな立場があります。黙示録6章から、この地上に神のさばきが下される大患難時代が始まります。これは7年間続きます。この大患難時代の前に携挙があるという立場と後に携挙があるという立場があります。私はいろんな資料から携挙が大患難時代の前に起こるという立場を支持しています。その理由は後で説明します。

携挙再臨とはよく混同されますがどう違うのでしょうか。主が大患難時代の前に教会を天に上げるために来られるのが携挙です。(マタイ24:37~44、ルカ21:34~36、1テサロニケ4:13~5:11etc)主が大患難時代の後に天から教会とともに来られるのが再臨です。(マタイ24:15、21、29~30、コロサイ3:4、ユダ14、ゼカリヤ14:4~5etc)ですから主の再臨の前には大患難時代がありますが、携挙は突然起こります。ですから「目をさましていなさい」ということが強調されます。(マタイ24:42、25:13)

携挙はいつどのような形で起こるのか分かりません。肉体を持ったまま引き上げられるのか、それとも霊と魂だけが引き上げられるのでしょうか。どちらにしても地上では大騒ぎになることは間違いありません。しかし黙示録を見ればそれで人々が神を信じるようになるとは限らないようです。

大患難時代の前に教会が天に引き上げられているとすると、黙示録の4~5章でヨハネが見た天においては教会が存在するわけです。なぜそう言えるのかを説明します。
まず黙示録3:10の約束です。これはフィラデルフィヤ教会に対する約束ですが、この教会は真の信者、教会の象徴しています。ここで「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」と言われています。つまり真の教会は大患難に遭わないということです。
黙示録1~3章には何度も教会という言葉が出てきますが、6~18章の大患難時代の記述の中には一回も教会という言葉は出てきません。しかし19章から22章に入って再び教会の名が出てきます。つまり大患難時代には地上に教会は存在しないことが分かります。

ヨハネは必ず起こる事としてまず天の光景を見せていただきました。「御霊に感じて」(4:2)とありますから、幻によって啓示されたと思われます。そこには神の御座があり、それは宝石の輝きで表現されています。その御座の回りに24の座があり、24人の長老が座っていました。(4:2~4)
この長老とは誰なのでしょう。ある人は天使だと言います。しかし患難時代の前に携挙があるとする立場に立つ人はこの24人は天に上げられた教会だと言います。なぜそう言えるのでしょう。

まず24人という数字です。旧約聖書では24という数字は祭司の象徴です。ダビデ王は祭司を24の組に分けて神殿で奉仕させました。(Ⅰ歴代誌24:1~19)祭司は人から出てきます。ですからこの24人の長老は天使ではなく人です。
彼らは白い衣を着ていました。これは救いを象徴しています。天使は救われる必要はありません。救われた者とは教会を表します。
彼らは金の冠をかぶっていました。冠には二つのギリシャ語があります。ダイヤデムとステファノスです。ダイヤデムは王族がかぶる冠を表し、ステファノスは勝利者に与えられる冠です。ここではそのステファノスが使われていますから天に上げられた信者である事が分かります。(2:10、3:11)
そして長老という呼び名です。聖書では天使に長老という呼び名は使われません。長老は教会の指導者を指す言葉です。
以上の理由からこの24人の長老とは天使ではなく罪赦された者、クリスチャンである事が分かります。これらの理由が4章において教会がすでに天に引き上げられている根拠になります。

しかしこの天上と地上の教会はつながっています。(エペソ2:6)
前も書きましたが、昨年秋、Mさんという方の前夜式に出席しました。式では、生前M兄弟自身が歌われた賛美歌を録音したテープが残されていて、そのテープに合わせてご家族が一緒に賛美されました。まるでM兄弟がその場にいて一緒に賛美しているようでした。それを聞いていて天と教会は一体だ、私たちが賛美を捧げるとき天での賛美に加えられているのだ、という確信が与えられました。

今日は携挙という出来事をメインテーマとして語りましたが、なぜならこの事を考えることは非常に大切だからです。
それはいつ主が来られるかも分からないという意識によって福音を伝える働きが早められ、強められるからです。時がもうあまりないかもしれないと思えば、すみやかに行動しなければなりません。
そしてすぐ主が来られるかもしれないという意識は、人生で何を一番大切にすべきか、ということについて正しい判断を与えてくれます。私たちの宝は天にたくわえられているということを知ることは過剰な物質主義や快楽主義から守ってくれるでしょう。
そして生活の質が変えられるでしょう。よりきよい生活を心がけるようになります。夫婦げんかをしている時やポルノなどを見ている時に主が来られたら恥ずかしいですからね。
主との関係を正しく保ち信仰を守るためにも携挙を考えることはとても大事なことなのです。

主がいつ来られてもいいように、その日に備え、目を覚ましていましょう。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
マタイの福音書24章37~44節