真実な礼拝 | マスター・パスター晴れるやのブログ

真実な礼拝

女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。
私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
ヨハネの福音書4章19~26節


①礼拝すべきところは
「先生。あなたは預言者だと思います。」(4:19)イエス様に罪を示されたサマリヤの女は、イエスをメシヤではないかと考えました。そして「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(4:20)とイエス様に質問します。
というのは、サマリヤ人はこの山(ゲリジム山)で礼拝を捧げていました。しかしユダヤ人はエルサレム(シオンの山)でなければならないと言っていたからです。ゲリジム山かシオンの山か、私は一体どちらで礼拝するのが正しいのでしょうか?と女は聞いたのです。

ソロモン王の後イスラエル王国は北イスラエル王国と南ユダ王国とに分裂します。神殿は南ユダ王国の都エルサレムにありました。その意味では南ユダ王国が正統でした。
北イスラエルの最初の王ヤロブアムはそれに対抗するため金の子牛二つを造り、それをベテルとダンに安置し、そこで礼拝するように命じました。そして北王国はサマリヤを首都に定めました。
BC722年に北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、イスラエル人はアッシリヤに引いて行かれました。アッシリヤの王はサマリヤの町々にアッシリヤの人々を住まわせました。(Ⅱ列王記17:24)そこでサマリヤに残ったイスラエル人との混血が起こり、それがサマリヤ人の起源となったのです。彼らはモーセ五書しか聖書を持っていませんでした。またアブラハムがイサクを捧げたのがモリヤの山ではなくゲリジム山であると教えるなど、御言葉のすり替えを行っていました。それらのことをユダヤ人は誤った信仰であると軽蔑していました。確かにサマリヤ人の信仰は正しい信仰ではなく、正統はユダヤ人でした。そのことをイエス様は22節で「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」と言われたのです。

②霊とまことによる礼拝
主はこの女に優しく諭すように「『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』」(4:21~24)
と言われました。
それは「礼拝するのはゲリジム山でもシオンの山でもない。どこで礼拝するのか、そんなことは大して重要ではない。なぜなら霊とまことによって父を礼拝する時が来るからだ。いや今がその時なのだ。」という宣言です。つまりどこで(場所)礼拝を捧げるのが正しいのかということより、どのような(形式ではなく実質)礼拝を捧げるのか、が大切であるということです。父が求めておられるのは、礼拝の場所や形式を守ることなのではなく、霊とまことによって礼拝を捧げることなのです。そしてこのことは2章14~22節で主がなされた宮清めの意味するところです。

ここで主が言われた「霊とまこと」についてはいろんな解釈があります。「霊」とは旧約聖書にでてくる動物などの物質的な供え物に対するもので、私たちの霊、すなわち私たちの全人格を捧げるということです。(ローマ12:1)あるいは聖霊によって、と解釈する説もあります。
「まこと」とは、やはり旧約聖書の礼拝に対するもので、旧約の礼拝の規定はすべて、来るべきキリストを通してなされる礼拝の型(影、模型)を表します(ヘブル9:23~24、10:1)。旧約の時代に捧げられていた動物の犠牲はキリストを指し示していたのです。しかし本体であるキリストが来られた今、もはや動物の犠牲は必要ありません。イエス・キリストが十字架で、全人類の罪の犠牲の供え物になってくださったからです。その影に対する本体であるキリストを通してなされる礼拝がまことの礼拝なのです。

③父が求める礼拝者
「父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(4:23)

「まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編51:16~17)

 父が求める真実な礼拝とは、このようなものでしょう。儀式や形式も意味のあるものですが、その形を守ることだけに捕らわれると、礼拝ではなく、宗教行事になってしまいます。
日曜日に教会に行くこと、教会で儀式に参加すること、奉仕すること、献金すること、賛美歌を歌ったり、祈りを唱えること、これらは大切なことですが、それで礼拝したとはいえないのです。大切なのは中身です。どの様な動機でどういう心でそれらをしているのかが問われるのです。悔い改め、へりくだり、感謝と喜び、神との人格的な出会い、交わりがなければ礼拝とはいえません。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
ここで「霊的な礼拝」の「霊的」という言葉のギリシャ語の意味は、「合理的、当然の」という意味です。神の恵み、愛、赦しを体験した者は、神に対してどのような態度をとるのでしょうか。それは当然のように礼拝になるはずです。それが神の恵みに対して、合理的な態度だからです。そしてそれは、自分のからだ、すなわち全人格を生きた供え物として捧げることです。それが献身であり、霊的礼拝なのです。
旧約では神に捧げる供え物は、殺されて血を流さなければなりませんでした。しかし私たちは、生きたままで供え物となることが許されています。それはキリストが十字架で私たちに代わって犠牲になり、血を流し、死んでくださったからです。その代わりに私たちに求められているのが信仰なのです。

このような全人格を捧げる真実な礼拝をするためには、心の宮清めが必要です。心の中の騒々しい、礼拝を妨げるものがあれば取り除かなければなりません。
礼拝を妨げる雑音の一つに思い煩いがあります。確かにこれは礼拝を邪魔するものです。問題の中でも礼拝はできます。しかし思い煩いの中では礼拝はできません。
喜べないとき、悲しいとき、とても賛美できないようなときがあります。その問題に目を留め続けるなら、思い煩うしかないでしょう。しかしその問題から目を離し、すべてを支配しておられる神に目を向けるなら喜びと感謝をもって礼拝することができます。なぜなら神はどの様な問題よりも大きな恵みを下さるお方だからです。
礼拝は神の恵みに対する応答ですから、その基本姿勢はへりくだりと感謝と喜びです。決して恐れから礼拝するのではありません。礼拝は神と取引することではありません。祝福を頂くために礼拝するのではなく、祝福されたから礼拝するのです。

具体的に私たちは何を「いけにえ」として捧げるのでしょうか。
「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」(ヘブル13:15~16)
私たちのささげる「いけにえ」は賛美と愛の実践です。試練の中にあっても、思い煩いをゆだねて神の真実に目を留めて感謝と喜びをもって賛美すること。互いに愛し合うこと。これが、神が喜ばれる「いけにえ」であり、霊的な礼拝をささげる人の生き方です。