生ける水を与えるお方 | マスター・パスター晴れるやのブログ

生ける水を与えるお方

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」
ヨハネの福音書4章10~18節


主はサマリヤの女に神の賜物のことについて語ります。「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」(4:10節)
神の賜物とは10節では「生ける水」として表され、14節では「永遠のいのちの水」と言いかえられています。それは神の救いの恵みであり、永遠のいのちの保証である聖霊です。

しかし女は主の言葉を文字通りに受け取って霊的な意味を理解できませんでした。それが女の答えに表れています。「彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』」(4:11、12節)


そこで主はもう一度生ける水について語ります。「『この水を飲む者はまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(4:13、14)

女は「そんなに便利な水があるなら私も欲しいものだ」と思ったのでしょう。「 女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」 (4:15)
女はまだ主の言われている事の真意が理解出来ていませんでしたが、主に求めました。これが大切です。最初はそれでいいのです。最初から主の深いみこころが分かるはずも理解出来るはずもありません。大切なことは、とにかく主に対して心を開き、求めることです。

①キリストが与える水は決して渇くことがない
人は誰でも心の中に空洞を持っています。パスカルは「神にしかその空洞を埋めることはできない。」と言いました。この空洞、渇きはこの世のいかなるものをもってしても満たすことはできません。お金や地位や名誉は本当の平安を与えてはくれません。これらすべてを持ち合わせていても不幸な人はいくらでもいます。しかし主が与えてくださる水を飲むならば、どのような困難にあおうとも、お金がなくとも、地位や名誉がなくても、誰からも認められないとしても、主は絶対的な平安を約束し、どんな境遇にあっても満ち足りることを学ばせて下さいます。(ピリピ4:11)

どうしたらその生ける水を頂くことができるのでしょうか。それはただ受け取って飲むだけです。言いかえれば信じるだけです。(ヨハネ7:37~38)主が救い主であり、いのちを与えてくださるお方であることを信じ、求めるなら、与えられるのです。そうです!信じたら「聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(7:38)のです。
聖書にそう書いてあるから間違いありません。私たちは信じたら救われ、赦され、生ける水の川、すなわち聖霊が溢れ流れるようになるのです。例外はありません。そうならなかったら聖書がうそを言っていることになります。
つまりこれは法則であり、原理です。水は1気圧であれば摂氏0度で氷になり、100度になれば沸騰して水蒸気になります。それと同じように信じたら信仰の原理、いのちの御霊の原理により、私たちは救われ、赦され、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。
人生戦いはあるでしょう。苦しみもあるでしょう。しかしいのちの御霊の原理がそこに働くならばあらゆる状況の中で平安が与えられ、賛美と感謝する力が与えられるのです。もしそうなっていかなかったら何かが邪魔をしていると考えられます。生ける水の流れを何かがせき止めているのです。

②生ける水を飲むために
水を求めた女に対して、主は女の罪に光を当てられました。「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。
あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』 」 (4:16~18)

女は不意をつかれたように語られた主のことばに、自らの罪、現実の姿に気づかされ、はっとさせられたに違いありません。救いを受け取るために、罪の自覚は最も大切なことです。主は罪人を招いておられるのです。病人は自分が病気であることを知らなければ適切な治療を受けることはできません。病気の自覚のない病人は治療を必要だとは思わないのです。同様に罪の自覚のない罪人は自分が救われなければならないとは思いませんし、赦しが必要だとも考えません。
主は女の罪深い生活をすべて知っておられました。同様に主は私たちのすべての罪を知っておられます。ですから隠してもしようがありません。言い訳したいときもあるでしょう。言い分もあるでしょう。しかし誰に責任転嫁したところで罪の事実は残ります。主はあなたのそうせざるを得なかった事情も気持ちも理解してくださいます。そしてそれを責めずにむしろ赦してくださいます。その責めを主が自ら負って十字架にかかってくださったのです。ですから素直に罪を認めて悔い改めましょう。悔い改めて赦しを受け取ること、それが生ける水を受けるために必要なことです。そのことを主は女に教えられました。

③神の国とその義とを第一に
悔い改めとは主にまっすぐつながり、神との正しい関係を回復することです。主との正しい関係がなければ人生必ずどこかで疲れます。いくら豊かでも、成功しているようでもむなしいのです。
主は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)と言われました。神の国とは、神の支配ということで、神の義とは神との正しい関係です。
私たちの人生に、この神の支配と神との正しい関係がなければ、いくら能力があって、バリバリとしたやり手であってもいつか疲れます。いくら豊かで、飽きるほど食べられて、地位や名誉があってもむなしいのです。魂は満たされることなく、いつか渇きます。そういう人に対して主は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・・そうすればたましいに安らぎが来ます」(マタイ11:28)と招いておられるのです。
もし信仰生活に疲れたら、自分には力がないと感じたら、自分の力で頑張っていないだろうか、生ける水を与えて下さる主との関係が正しいだろうか、と吟味してみましょう。生ける水の川(聖霊)の流れをせき止めるものは、何かの罪かも分かりませんし、あるいは何らかの偶像礼拝か、もしくは自分の力で頑張ろうとしていた自我かも分かりません。
もしそうなら悔い改めてまっすぐ主につながり、神との正しい関係を回復し、全知全能の神に人生を導いていただきましょう。主は豊かに生ける水を与え、いのちを注いでくださいます。そのいのちは溢れ流れて、あなたをそして人をも生かしていくのです。

Faithful One (誠実なお方)