愛すればこそ | マスター・パスター晴れるやのブログ

愛すればこそ

また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
ヨハネの黙示録3章14~22節


今回で「今ある事」(1:19)として示された7つの教会に対するメッセージを終わります。最後はラオデキヤの教会です。
ラオデキヤはエペソの東160キロ、コロサイのすぐ近くにある町でパウロがコロサイへの手紙を書いた時にラオデキヤでも読まれるようにと言っています。(コロサイ4:16)

ラオデキヤという言葉の意味は「人間による統治」でこれはラオデキヤの教会の問題をよく表しています。

ラオデキヤは毛織物産業と金融業で栄えた経済的に非常に豊かな商業都市で、BC60年に大地震で町は壊滅したのですが、どこからも援助を受けずに自力で復興したほどです。また学問の町でもあり医学と薬学の学校がありました、そこで作られる粉末の目薬はよく効くとして有名でした。また9キロほど離れたヒエラポリスから温泉を地下水道で町へ引いていました。

ラオデキヤはBC200年ごろからたくさんのユダヤ人が移住し、福音も早くから伝えられ、この時代には大きな教会に成長していました。

預言的にはこの教会は終末の背教の教会時代を表すと言われています。しかし過去にも現代にもラオデキヤのような教会は存在しています。
ラオデキヤの教会には7つの教会のうち唯一褒める言葉が一つもありません。主はこの教会に何と言っておられるのでしょうか。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』」(3:14)
主はこのラオデキヤの教会に対してご自身をまず「アーメンである方」と言っています。主はその言葉と行い全てにおいて「その通りです」と同意できる存在です。そして「忠実で、真実な証人」といわれています。イエス・キリストは「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われたように、父なる神様を忠実に現すお方です。「神に造られたものの根源」である方とはイエス・キリストが創造の源であるお方であるということです。(コロサイ1:16、17)

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。 」(3:15~16)

ラオデキヤにはヒエラポリスから温泉の湯が配水管によって引かれていましたが、10キロ近く離れたところから運ばれていたので町に着くころには熱いお湯もなまぬるくなっていました。主はそれを比喩として用いて教会もなまぬるくなっていると言われました。それで「わたしの口からあなたを吐き出そう」と言っておらます。大変厳しい言葉ですが、主が言われる熱くも冷たくもない、なまぬるい信仰とはどのようなものでしょうか。
「熱い」といえば普通考えるのは熱心に奉仕し、伝道し、祈り、学ぶということでしょうか。では「冷たい」というのは反対にそれらのことを全く何もしないということでしょうか。
ここで言っているのはそういう奉仕や働き、学びなどに熱心かそうでないかということではありません。

料理でも飲み物でも美味しいのは熱いか冷たいものです。熱い物は熱く、冷たい物は冷たく、それが基本です。熱いラーメンが熱くなければ、冷たいはずの冷やし中華が冷たくなければ美味しくありません。熱いコーヒーが冷めてたり、冷たいビールがなまぬるいのも同じです。そういうものがお店に行って出されたら「金返せ」と言いたくなります。
寒い時の熱々の鍋や飲み物は体があったまって嬉しいし、暑い日やスポーツした後の冷たい水は体が生き返るようです。要するに主が「口から吐き出そう」と言われたのは美味しくないからです。
ラオデキヤの教会の信仰は主の口に合わない、主を喜ばせるものが何もなかったということなのです。

どうしてそうなってしまったのでしょう。その理由が次に語られています。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(3:17)
ラオデキヤは経済的に豊かで教会にも裕福な人が多かったのでしょう。教会堂は立派で大勢の人が御馳走を囲んで食事をし、交わりをしていたかもしれません。迫害もなく必要なものは何でもあったかもしれません。17節前半は自分たちの今の生活に満足している様子を表しています。主がいなくても別に困らない自己満足している心です。しかし主はそんな彼らに、あなたがたの本当の姿は、実はみじめであわれで貧しくて目の見えない裸の者であると言われました。(17b)
彼らは今の豊かな生活に満足して何も困ることがなく、霊的な必要を求めようとしませんでした。教会で一番大切なみことばが語られず、みことばに対する飢え渇きもありませんでした。
すべての人は神の前に罪で汚れており、愚かで哀れな者です。神の助け、救いが必要なのです。主を求めない心は自分の真実な姿を見えなくさせます。このことに気付かないことが「なまぬるい」ということです。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
(3:18~19)

そんな主の口から吐き出されるようなラオデキヤの教会に対しても、いやそれだからこそ主は近づきあわれみを示されました。そしてどうすればもう一度本当の豊かさと祝福を回復することができるのかを教えてくださいました。主はラオデキヤの人たちになじみの深い物をたとえてそれを示されました。
ラオデキヤは金融業の町でした。金は彼らにとってなじみ深い物です。「火で精錬された金」とありますが、これは試練によって練られた信仰を表します。彼らには試練に耐え抜く信仰が必要だったのです。(Ⅰペテロ1:7)
ラオデキヤは毛織物産業でも有名でした。特に黒い光沢のある織物は高価な値で取引されていました。町の人々もその立派な黒い衣を着ていたのでしょうか。しかし彼らの心は裸同然で、主は彼らに「白い衣を買いなさい」と言っておられます。それは信仰によって着せられる義の衣です。
またラオデキヤは目薬の生産地でも知られていました。主はその目薬を自分たちに用いなさいと言われています。それは聖霊によって目が開かれ神の栄光が見えるようになることです。(エペソ1:18~19)

ここではそれらのものを「買いなさい」と言われています。つまり何らかの代価を払うということです。これは救いは無代価で与えられるという教えと矛盾しているのでしょうか。そういう意味ではなく自己を主に明け渡すこと、すなわち信仰によってキリストとともに十字架に死ぬということを表すのではないでしょうか。(マタイ16:24~25)

主はラオデキヤの教会に対して非常に厳しいことを言いましたが、それは彼らを愛していたからだということがこの19節で分かります。
人間の親でも先生でも叱るのは愛しているからであり、厳しく訓練するのは見込みがあるからです。しかし人間の場合は不完全で多分に感情的になってそうしたり、憎しみからそうすることも多いのですが、主はそうではありません。完全な愛に基づいて私たちの救いと祝福を願ってそうされるのです。
今日もし主から何らかの叱責や忠告を聞いたなら素直に従いましょう。それは私たちを愛しておられる証拠です。主はあなたが大切で失いたくないのです。(へブル12:5~6)そしてあなたと深い愛の関係を結びたいのです。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)
当時食事をともにするということは一つになるという意味がありました。主は私たちと食事をともにするという表現で、私たちと一つになり、ともに喜びともに苦しむような親密な関係になることを求めておられるのです。
一つになるために主は私たちの心の、教会の扉をノックして「わたしを中に入れてくれないか、一緒に食事をしよう。」と声をかけられているのです。
ラオデキヤの教会の姿は「キリストの家」という看板がかけられているにもかかわらず、中には主人たるキリストがいないのです。戸の外に主が締め出されているのです。
立派な会堂があり、礼拝に大勢の人が集まり、美しい音楽、整えられたプログラム、熱心な奉仕や活動、賑やかな交わりがあっても中心にイエス様がいなければむなしいものです。
教会のさまざまな活動の動機が主への愛に基づくものなのか、自分たちの自己満足なのか、その動機が問題です。もし主への愛が動機でなかったとしたらそれは礼拝の真似事です。宗教的な儀式で満足しているだけで、そこには真実な主との交わりはありません。

ウィリアム・ホルマン・ハントという画家がこの3章20節の主の姿を絵に描きました。「世の光」という題がつけられています。この絵をよく見るとドアの外側にはドアノブがありません。つまり内側からしか開けられないのですhttp://www.artchive.com/artchive/h/hunt/hunt_light_of_world.jpg
(この絵の解説)http://www.asahi-net.or.jp/~rv3m-stu/pic535.htm

どうか私たちの心の目が開かれて自分の汚れやみじめさを知り、自分には主の助け、救いが必要だということに気付かされますように。主が私たちの心の戸を、教会の戸を叩いておられるその音を聞き、心の戸を開いて「主よどうぞお入りください、そして私と一緒に食事をし、私を祝福してください」と祈ろうではありませんか。
ここには「だれでも」と書いてありますから、どんなに汚れてぼろぼろの人でも、どんなに堕落してしまった教会でも、悔い改めて主を招き入れるならそこから癒しと回復が始まるのです。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(3:21)
主とともに生きるならその人は勝利者として天に迎え入れられます。そして主とともに王としてその位につかせてくださいます。

昨年10月にある方の葬儀に出席しました。お腹の調子が悪くて病院で検査したところ、すでに大腸癌の末期だということで、長くて半年の命だという宣告を受けました。実際には5ヶ月たらずの闘病生活でした。しかし兄弟は癌に負けたのではありません。闘病の苦しみの中でも信仰により平安と希望を失わず、お見舞いに来られた人たちにかえって励ましや慰めを与えられました。そして信仰により見事勝利者として天に凱旋されたのです。

今日もう一度自分の信仰を確認しましょう。自分の行いや奉仕、礼拝が主への愛が動機になっているだろうか。自分の誇りや自己満足に陥っていないだろうか。御言葉に対する飢え渇きや主ご自身との関係を求める心があるだろうか、吟味してみましょう。
もしそうでないなら悔い改めましょう。主はあわれみの神です。私たちがどのような者であっても、私たちと交わりたいと願っています。どんなに罪を犯していても悔い改め、主を求めるなら、すぐさま関係が回復されるのです。
主が私たちにしてくださった愛の業に目が開かれ続け、自分の行いの動機が主への愛に基づいているのかを吟味し、いつまでも素直な悔い改める心を持ち続けましょう。