開かれた門 | マスター・パスター晴れるやのブログ

開かれた門

また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
ヨハネの黙示録3章7~13節


今日はフィラデルフィヤの教会への手紙から学びましょう。
これまでもお話ししましたが、2~3章に出てくるアジヤの七つの教会に宛てられた手紙はいろんな読み方が出来ます。
まずこれらの手紙は当時の実際の教会の実情を表しています。
そしてすべての時代のすべての教会の型を表します。どの時代にもこれらの七つの教会の型があるということです。
それから預言的な見方があります。初代教会から終末の教会に至る教会歴史の各時代を代表する特徴を表しています。
そして個人レベルに当てはめて自分自身に適用してみる見方があります。

フィラデルフィヤはサルデスの南44キロのところにあります。BC150年頃にリディア人、アッタロス・フィラデルフィオスによって建てられた比較的新しい町で、その名にちなんでフィラデルフィヤと名付けられました。フィラデルフィヤには兄弟愛という意味があります。
アメリカ、ペンシルベニヤ州フィラデルフィヤはこの町の名から取られました。アメリカ独立宣言が起草された町で1790年から1800年までアメリカ合衆国の首都が置かれた町です。

フィラデルフィヤにはサルデスから奥地に至る幹線道路が通り、交通の要衝として栄えました。元々はヘレニズム(ギリシャ)文化を伝える目的で建てられた町で、アテネのように非常にたくさんの偶像の神々が祭られていました。また断層の上にあったため地震が多くAD17年には町が倒壊してしまいましたが、ローマ皇帝ティベリウスの援助によって再建されました。
土地は肥沃でブドウの産地として知られていました。ユダヤ人も多くシナゴーグ(ユダヤ会堂)もありましたが教会は大きくはありませんでした。

七つの教会のうちスミルナとこのフィラデルフィヤだけには非難の言葉はなく、ほめ言葉だけです。そして現在七つの町のうちそのスミルナと(現在イズミール)とフィラデルフィヤ(現在アラ・シェヒル)にだけ教会が存在し、今も礼拝が捧げられているのは主の守りでしょうか。

預言的にはこのフィラデルフィヤは1800年代以降から現代に至る世界宣教とリバイバルの教会時代を表しています。この時代にはインドにウイリアム・ケアリー、中国にハドソン・テーラー、アフリカにはディビット・リビングストンなど数多くの宣教師が遣わされました。

また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。(3:7)
主はご自身を聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方として表されています。
聖とは区別するという意味で被造物とは本質的に区別される超越的、絶対的な存在であるということです。
真実とは偽物ではなく本物であるという意味で、フィラデルフィヤには多くの偶像がありましたから、そのような偽物ではない本物の神であることの宣言で、約束に忠実な確かに信頼出来るお方であるということです。
ダビデのかぎを持っている方とは主イエス・キリストが天国のかぎを持っている方であるということです。
ユダの王ヒゼキヤの時代にエルヤキムという宮内長官がいました。(イザヤ36:3)彼にはエルサレムのかぎが預けられました。(イザヤ22:22)彼のところに行かなければ誰もエルサレムの門の中にはいることができなかったのです。同様にキリストのところに行かなければ天国の門には入れないということです。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(3:8)
その門がフィラデルフィヤの聖徒の前に開かれています。その理由として「あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」からです。言いかえれば僅かの力しかなかったにもかかわらず、彼らが主のことばを守り、迫害の中でも主の名を否まず主に従い続けたからです。
この御言葉は私たちにとっても大きな励ましです。たとえ小さな教会であっても、僅かな力しかなくても御言葉を守り、主に忠実であるなら、天国の門は私たちの前に開かれ、天国の祝福を味わい、また小さな私たちに神の力によって大きな働きをさせてくださるからです。
フィラデルフィヤの教会は当時の大教会であるエペソやコリントやアンテオケのように賜物のある人材も、経済的豊かさもなく、伝道者を派遣したりというような大きな働きはなかったかも分かりません。しかし小さいながらも教会にとって一番大切な兄弟愛をもって互いに愛しあい、互いに励まし合って主のことばを守り、良い行いを通して町の人たちに確かな証しをしたのです。ここがサルデスの教会と異なる点でした。信仰に伴う行いがあったのです。

私たちはつい他の大きな教会や賜物豊かなクリスチャンと比べて自分が惨めになったりします。あるいは反対に神の前には小さな者であるにもかかわらず、何か自分が大きい者であると高ぶり、神により頼むことをしなくなります。どちらもサタンの罠です。
神はこの世の弱い者を選ばれます。(Ⅰコリント1:27)そしてその弱さのうちに神の力が現されます。(Ⅱコリント12:9)ですから私たちは弱くとも自身を持って良いのです。それは自分に対する自信ではなく、神に信頼するなら大丈夫という自信です。小ささや弱さを自覚することは、自分を誇るのではなく、神を誇り、神の栄光が現されるためには必要なことです。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(Ⅰコリント1:28~29)


小さいのは私たちの教会だけではありません。日本のキリスト教界全体にも言えることです。中には1000人規模の教会もありますが、日本社会全体の中ではキリスト教界は本当に小さな組織です。何とか学会とかの宗教団体に比べたら弱い力しかありません。
では教会のなすべきことは何でしょう。もっと大きな集会をして、もっと大きなイベントをする事でしょうか。大切なことです。しかしもっと大切なことは自分が小さい者であることを認めて主から力をいただいていること。御言葉を守り、主に忠実であることです。フィラデルフィヤの教会はこの事ゆえに主から賞賛を受けました。これらの事が守られているなら天国の門は私たちの前に開かれ、私たちにも天国のマスターキーが預けられます。そして私たちはこの開かれた天国の門へ人々を導くために出て行くでしょう。

9節以下に主の御言葉に忠実であった者に対する祝福の約束が書かれています。
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。(3:9)
「ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなく~」
彼らはイエスをメシヤと認めないユダヤ人です。しかし彼らは主の再臨の時イエスがメシヤであることを知り、自らの不信仰を恥じ入り、クリスチャンにひれ伏すようになるのです。

あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(3:10)
真の教会は来たるべき大患難から守られます。これはクリスチャンが人生で苦しみや試練に会わないということではなく黙示録6章から始まる不信仰な世界に対する神のさばきによる大患難に会わないということです。この大患難時代の前に教会は地上から天に引き上げられるのです。(Ⅰテサロニケ4:16)これを携挙といい4章の前に起こる出来事だと考えられます。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(3:11)
今私たちは主がいつ来られてもおかしくない時代に生きています。ですから私たちは天で受ける勝利者のしるしである冠をサタンに奪われないように目を覚まし、信仰を守り抜かなければなりません。

勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。(3:12)
ここで勝利を得る者には「わたしの神の聖所の柱としよう」と言われています。私たちが天国を支える柱となるのです。この地上で天国を現すのは教会です。つまりクリスチャン一人一人が教会の柱です。一人一人が教会を支えるなくてはならぬ必要な存在です。
柱がしっかりと立つにはしっかりとした土台に立たなければなりません。教会の土台はもちろんキリストです。フィラデルフィヤは地震が多く起こりました。倒れないように建物がしっかりと立つには柱がしっかりとした土台に立たなければなりません。教会がしっかり立つにはキリストという土台に立つことです。
そしてしっかりと立つもう一つの条件は、柱同士がバランスを保つことです。柱には太い柱も細い柱もあります。互いに支え合い助け合う必要があります。フィラデルフィヤの教会のように兄弟愛が必要なのです。そうすれば大地震のような大きな揺れにも柱は倒れず教会は守られるでしょう。

そしてもう一つの約束は「決して外に出ることがない」です。フィラデルフィヤは地震が多かったものですから、外に逃げることが多かったのです。しかし天においてはもう二度とそのようなことはなく、永遠の安全、安心が保証されます。その人には天国の市民であることを表す新しいエルサレムの名とその人の天国における新しい名が天国の戸籍に記録されます。

私たちがキリストにつながるなら天国の門が私たちの前に開かれ、私たち自身にキリストから天国の門のかぎが預けられます。それは多くの人を天国へ導くためです。いつかこの門も閉じられるときが来ます。ですから死に至るまで御言葉に忠実に生きることができるように祈りましょう。

御言葉を守ることは決して窮屈なことではありません。御言葉という規則で縛り付けて不自由に生きることではないのです。むしろ御言葉は私たちを解放し、自由を与えるものです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31~32)


御言葉を守るとは私たちが危険なところへ行かずに、安全地帯に留まるためです。御言葉が約束する祝福を受けて喜んで生きるためです。御言葉を守り、そこに生きる意識を持つためには、御言葉を福音的に解釈し、健全な福音理解が大切です。

皆さんに神の御言葉による祝福をお祈り致します。