神の怒り | マスター・パスター晴れるやのブログ

神の怒り

ゴールデンウィークも終わり、生活に落ち着きが戻った方も多いと思います。
しばらくお休みしていたメッセージを再開します。
ヨハネの福音書のテーマは「いのち」です。今日の箇所でも「いのち」が中心テーマです。

上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。
神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネの福音書3章31~36節


上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。(3:31)
私たちが外国のことを知りたければ、その国の人に聞くのが一番確かです。同様に天のこと、神のことを知りたいなら、天から来られた方に直接聞くのが一番です。キリストはその天(上)から来られたお方です。
バプテスマのヨハネは神から啓示を受けて天のことを語っているのですが、あくまで地に属している者であり直接天を見たわけではありません。しかしキリストはすべてのものの上におられる神であり、父からすべての権威と力を御霊によって与えられたお方です。キリストがそのまま神の心を表す神のことばです。神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。(3:34)

この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。(3:32)
そのあかしは3:16で語られているように、神が人を愛し、いのちを与えるというものです。しかし多くの人はそのキリストのあかしを受け入れません。

私たちの救いはキリストにかかっています。
これまでも学んだように、人は罪によって滅びに向かっています。罪の問題は人には解決できません。人は自分で自分を救うことは出来ないのです。キリストは神から差し出された救いの綱です。その綱をつかむか拒否するかでいのちか得るのか死に至るのかを決定するのです。
罪とは神との関係が正しくない状態です。私たちの造り主であり、いのちの源であるお方から離れては、いのちを失うのは当然です。救いを得ようとするならば、その神と和解をし、関係を回復しなければなりません。そのためにキリストは神と人との仲介者となられ、人の罪を身代わりに引き受けて十字架にかかって罪のさばきを受けて下さったのです。キリストは、人が神と和解し、交わりを回復するために来てくださったのです。人の方で、神から離れてしまったにもかかわらず、神は人を愛しておられるので、神の側から和解の手を差し伸ばして下さいました。

何度もいうように、人は自分では罪をどうすることもできないのです。ですから、この神から差し出された救いの方法以外に救われる方法がないことは、少し考えれば分かることです。
それでも人は何とか自分の力で救いを得ようと頑張るのです。あるいは反対に「どうせ人間死んだら終わりだ。だから生きている今、おもしろ楽しく生きよう。」というような価値観で生きています。
キリスト以外に天から来られたお方はいません。キリスト以外にあなたのために死んでくださった方はいないのです。いのちを与えることができるのはキリストしかいません。

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(3:36)
ここでもう一度信じる者と信じない者との対比がされています。信じる者は永遠のいのちを持ち、聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる、とあります。
神の愛が人間の愛と違うように、私は神の怒りは人間の怒りとは違うと思います。
娘が幼稚園の時、妻が下の子を出産した直後だったため、私がよく幼稚園へ娘を迎えに行きました。お父さんが迎えに行くのは珍しかったのでしょう。私が幼稚園に行ったら「あっマナちゃんのお父さんやー」と言って、娘のクラスの男の子が私の方に駆け寄って来て体当たりしてくるのです。中にはやんちゃな子がいてパンチを出したり、けとばしたりする子がいました。私はいつも適当に相手をしていたのですが、ある日たまたま、ある男の子のけった足が私の大事なところにもろに当たってしまったのです。私は思わずうずくまってしまいました。そして思わず「このやろー」と、かっとなってしまい5歳の子ども相手に本気でパンチを出すところでした。
しかし神の怒りは人間のこのような怒りのように単に感情的なものではありません。神の怒りは、自分の思い通りにならないからといっていらいらしたり、思わずかっとして手が出るような自己中心的なものではありません。神の怒りは正しい怒りなのです。あらゆる悪、不正、罪に対する怒りです。正義が、愛がないがしろにされているときに神は怒られます。私たちでさえ、この世の悪や不正に対して憤りを覚えることがあります。ですから正義の神が怒られるというのは当然のことです。

36節で「神の怒り」というのはさばきの代名詞のように用いられていますが、神のお心を考えたときに、もっと奥深いものを感じます。
神はもちろん罪に対して怒られるのですが、救い主であるキリストを信じない人々、滅んでいこうとしている人々に対して、「なぜ信じないのか、信じなければ滅びだぞ、こんなに愛しているのにどうして分かってくれない。どうか信じて生きてくれ!」という神の悔しさ、悲しみがあるのではないでしょうか。愛するがゆえの怒りではないでしょうか。

エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」 (ルカ19:41~44)

主は都を見て泣かれました。主はなぜ泣かれたのでしょう。
主は子ロバに乗ってエルサレムに入城されました。人々は大歓声で主を迎えます。しかし主の心には悲しみがいっぱいでした。なぜならこれらの人々はこの数日後には同じ主に対して「十字架につけろ」と叫ぶのです。そしてその後エルサレムはAD70年にローマに滅ぼされることになります。
主はみずからが救い主であるしるしとして、人々をいやし、悪霊を追い出し、様々な奇跡を行われました。しかし人々は、いやしを受け取っても主の心は受け取りませんでした。 
主がエルサレムに入城されたとき、人々のかたくなな心に対して、怒りを通り越して、悲しくて泣くしかなかったのです。

主は今も至るところにある、憎しみ、無関心、争い、戦争、破壊、不正などによって人が傷つき、痛んでいる様子をご覧になって同じように泣かれているのではないでしょうか。
これらはすべて人間の罪が原因です。罪は破壊と滅びをもたらします。どんなに強いリーダーが現れても政治、社会体制を変えても、人が内側から変わらなければ何も変わりません。それは自分の努力や力では不可能です。御霊による以外に新しく生まれることは出来ません。(ヨハネ3:3)ですから頑張ることをやめ、自分の罪や弱さを素直に認めて、主に悔い改めて「助けてください」と主に求めるなら、心の中に神の国が訪れ、神の支配が始まります。その時から人は変えられていくのです。

主は十字架から懇願し、叫んでいます。「あなたはいのちを選びなさい」(申命記30:19)
「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。-神である主の御告げ。-だから悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル18:31~32)
このキリストの叫びをいつも聞いていたいと思います。なぜならこのキリストの叫びは、私たちを否応なしに、救いの原点であるキリストの十字架に向かわせてくれるからです。