写真は20世紀最後の宗教画家と呼ばれるルオーの道化師。無料画像から。
独特の厚塗り、黒い輪郭線と暗く沈んだ色調が特徴的なルオー。第1次と第2次大戦の時代、社会の底辺で生きる人々への想いを持って描き続けたと言われている。
彼はイエス・キリストの象徴としてピエロ、道化を描いた。哀しみや苦悩を内に秘めて、他人に笑いを与える道化師に深く共感し、生涯取り組む主題になったらしい。
私達、児童英語教育の講師達も往々にして、子どもたちの前で道化る。英語の説明は楽しくないと!と思うから、面白いオチや動作で笑いを誘う。例えば「Don't run」と言いつつ、走ってドアと通りすぎてしまい、壁にぶつかるとか。(笑)だから親しみを覚える
一足ごとに失敗して、失敗して…、笑いと涙、そして共感を誘う!
時に教会の説教でも、道化師を引き合いにして、ある旧約聖書の章が引用されることがある。
【彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。】
イザヤ53章
「苦難のしもべ」の章と呼ばれる。メシアの預言であり、新約聖書ではイエス・キリストを示すとしている。苦難のしもべとイエスの十字架を重ねているのだ。
こう続く。
【しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。】
確かにあの人は道化の様だという時、どこか愚か者という語感がある。ピエロは人に侮られ軽んじられるが、誰かを笑わせほっこりとさせる。イエスもそうでなかったか?侮られ忌み嫌われた死に方であったが、誰かを生かす為の姿であった!
罪深い私達人間が、誰一人、罪の苦しみに遭わないように身代わりに罰である十字架の苦難を受け、私達を自由にしてくれた。彼は私達の為に傷つけられ砕かれた!
イエスもまた悲しみの者。
さて、こんな言葉を読んだ。
【悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。 悲しむことは温めることである。 悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。 悲しみは慈(いつくし)みでありまた『愛(いとお)しみ』である】
柳宗悦「南無阿弥陀仏」より
聖書にもこんな言葉がある。
【神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。】
新約聖書、コリント人への第2の手紙
苦しみの中に神を求めてその意味を探ろうとするなら、必ず答えは来る。その慰めはただ自分の為だけでないことが分かるというのだ!
もしかしたら知らないところで、悲しむ者は誰かを慰め得る人格的な何かを、心の内に育むように神はしてくださるのではないだろうか。