泉パウロ 純福音立川教会 - YouTube

 

「私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。私はたとえに耳を傾け、立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。」(詩篇49:3、4)

私たちの神様は真に英知に満ちた偉大なお方です。詩篇に預言されたとおり、イエス様のメッセージは知恵と英知そのもので、その現われとしてたとえ話が多く引用され、特に自然界にあるものを通じて福音は解き明かされました。魚のたとえ話や空を飛ぶ雀、カラス、らくだ、豚、麦やぶどうの木、からし種やいちじくの木、山…。実に多くのメッセージがごく身近な自然界に見られる庶民的感覚あふれる、すべての人になじみやすいユニークさがあり、幼子でも理解しやすい御教えでした。最も偉大なメッセージとは深い奥義を実に簡単に伝えるものです。

イエス様の福音は無学な普通の庶民レベルの視線に合わされた最もやさしく単純でかつ深い奥義が伴い、国籍、文明、老若男女問わず、すべての人へのいのちの言葉でした。

一見単純にも思えるごく身近な自然界のものを題材に福音が繰り返し語られたもう一つの目的は、身近に興味を引く分かりやすさに加えて、そこに神様の偉大な知恵と英知、今日の私達への深い配慮があったと思われます。自然界の植物や動物は変わり行く時代の流行とは異なり、種の保存の法則の中ではるか2千年を超越しても必ず後世に今も同じく残り、時代を越えた私たちが聞いても今日の事のように理解できる共通の御教えで、これこそイエス様が将来生まれる私達のことまで深く配慮された時代を見通した万人への英知の福音だったのです!ハレルヤ!

そこで、聖書中しばし引用される生き物たちのたとえから教訓を受けたいと思います。



「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)

イエス様は群集を「羊飼いのない羊のように」ご覧になられました。もし羊飼いが共にいれば羊はどんなに険しい荒野にいても安全で何の心配もありません。広くて明るい緑の牧場もいこいの水際も迷うことなく導かれ、天敵の攻撃も、ムチと杖で弱い羊に代って戦ってくれるからです。しかしいったん、この強くて頼もしい羊飼いがいなくなると羊は決して強くはなく、むしろ野の獣の餌食となってしまいます。イエス様の共にいない人生、それは過酷でかわいそうです。自分では気付かなくとも霊的にはすでに打ちのめされた状態で「弱り果てて倒れて」います。

羊は決して自力では生きられません。さ迷うばかりの存在です。

私たちは神様の御前で羊のように弱く自活できない存在であることを謙遜に認めて、よき羊飼いイエス様の助けを日々、真剣に求めるべきです。そのことが祈るという行動です。

祈るそのとき、イエス様がどこで寝ようか、何を食べようか、何を着ようか、すべてのことに詳細な関心を示され、指導して下さいます。生活上の一切は羊飼いが綿密で優れた計画を立て、羊が健康的で豊かに肥えるよう責任ある導きをします。どんなに羊が優秀でも人間である羊飼い以上に英知はなく、私たちの最善の計画と行動以上にイエス様は圧倒的に優れた英知の御計画を持って導くことができます。一切を心配せず、委ねられるようお祈りしましょう。

委ねられるとき、一切の責任はよき羊飼いイエス様の肩にかかってしまい、私たちは幸せな安息を得ることが出来ます。

優れた計画も羊への健康管理と癒し、衣食住、繁栄すべては羊飼いの仕事です。イエス様が責任を持ってなされます。心配事も羊飼いの領域の仕事です。羊は悩む立場ではありません。今日、羊飼いに変身した羊が多くいます。イエス様に主権をお返ししましょう。

イエス様はいつも聖書から語られます。私たちは、この世とは異なる神様の御声を聞き分けて、信仰で応答して追従しましょう。私たち羊の群れの鳴き声は唯一つ「アーメエーン」です。

ペリカン ふくろう

「私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。」
(詩篇102:6)

「荒野のペリカン」「廃墟のふくろう」いずれも孤独で身寄りなき状態を表します。

聖徒はしばし、神様から孤独が要求されます。それは一人神様の御前に静まって心を向け、真剣に祈る為です。一人孤独でいる時にも冗談の連続という人はあまりいません。一人になったら真剣に心を探り、神様との関係を正す時間、最も大切な時間です。祈り深い敬虔な生活のために導かれた、環境的な孤立を恐れないで下さい。その精神的孤独は神様が与えられた更に優れた祝福の未来の為、ステップとなるための鍵なのです。

お祈り下さい。寂しさを感じる時。「荒野のペリカン」や「廃墟のふくろう」のように環境的な荒廃を感じる試練の時。

鳥は自由です。どんなに環境が「荒野」と「廃墟」になっても飛び去れば、また新たな住環境を発見できるかもしれません。環境をいつでも変えられることが、鳥の自由な特権です。私たちの自由。それは祈りの翼をはって、黙想する時、その霊的世界は地の果てまで行きかうことが出来ます。全世界のすべての国民のためにとりなし祈れる自由があります、しかも御心ならば、住環境さえも変えられる神様の奇蹟もあります。どうか試練の地に置かれた時、失望せずにお祈り下さい。絶望しなければ、やがて何もないところから神様が不思議をもって救い出されます。祈りは奇蹟を生み出します。神様は無から有を呼び、闇から光を創られ、死者をよみがえらせる奇蹟の神様です。ただ、孤独な鳥がその不幸な現状と存在を表現する、鳴く声だけは止めてはいけません。鳴き続ける事です。主が省みてくださるまで。鳴き続ける事です。朝には「荒野のペリカン」のように、夕には夜行性の「廃墟のふくろう」のように、早朝の祈りに徹夜と断食祈祷までして、主に叫び求めましょう。



「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)

同じ鳥でもここでは私たちが鷲にたとえられています。鷲の特徴はその打たれ強い復興能力です。

「新しく力を得」られる、他とは圧倒的に異なる復興能力、それが私たちクリスチャンにも内住しています。

「主を待ち望む」祈りが内住の聖霊様を解き放ち、復活の力で満たしてくださいます。

鷲は弱く老いた時に、がけの斜面等に設けた巣穴に入って断食することがあります。新しい力を求めて待機していると、やがて新たな口ばしや羽が再生され、つめも新たにされる創造的な再生能力に長けた生き物です。我らも同様です。イエス様の中でとどまって祈り、復活の再生能力を発揮しましょう。

何度くじけて倒れても、再び立ち上がれます。つまずき転んでも起き上がればいいのです。何度失敗してもまたやり直せばいいのです。一つのことに挫折しても人生全体に失敗したのではありません。失敗を恐れない強じんさが必要です。

ただ、「主を待ち望む」という祈祷行動だけはやめないことです。

鷲は鳥の中でも圧倒的な戦力と敏しょう性をもつ、代表的な鳥の王です。

自らを訓練し、鍛えることでその戦闘能力はさらに高まり、各種の獲物を自由に捕えることができます。王のような祭司である私たちも訓練と実践次第でさらに大きな働きができるようになります。

また、鷲の特徴点は飛来する際、大きな翼を優雅に動かして上昇気流に乗って飛ぶ飛行法を十分体得した存在です。これを学んでいない小さな鳥は、ただやみくもに絶え間なく羽を忙しくバタバタ動かして、落ち着きがないです。

聖徒は肉の熱心による、無益に走り回る働きではなく、万軍の主の熱心による聖霊様の力で信仰の大空を優雅に飛ぶことができます。鷲に大きな風は創れませんが、上昇気流の風に乗ることは出来るはずです。聖霊様の起こされる風に乗る方法は祈って御霊に一致して行動することです。

よりわずかな力でより大きく効率よい成果を十分生み出す。それが聖霊様に導かれた生き方です。

「あなたの命令によってか。わしが高く上がり、その巣を高い所に作るのは。それは岩に宿って住み、近寄りがたい切り立つ岩の上にいる。そこから獲物をうかがい、その目は遠くまで見通す。そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。」(ヨブ39:27)

鷲は近視よりはむしろ遠視のように遠くを見つめます。将来を見据えた夢と幻、その信仰の目を持てないと小さな小鳥です。

出来るだけ遠くの獲物を見いだす、信仰の目を養いましょう。身近なところだけ近視眼的に見ているならばその器は小さな小鳥。身近な細かなものはよく見えず、いや、見ずして遠くをいつもビジョンを持って信じて見通す希望の目を持てば、その人は鳥の王なる、大きな鷲のようです。

「その目は遠くまで見通す。そのひなは血を吸い、殺されたものがある所に、それはいる。」

我らクリスチャンは、ひなのようにイエス様の血潮を受けて信仰が健全に育ちますが、不思議とこの特徴があります。

「殺されたものがある所に、それはいる。」聖徒の皆様で不思議と大きな問題にとらわれて苦しんでいる試練の人によく出会うという人は多いでしょう。

私も過去の伝道で「今日、本当に自殺しようかと思っていた。」と言う人に出会い、自殺を回避させた体験が幾度かあります。その後必ずしもすぐに信仰に入らなかった人も多いですが、多くの滅び行く人々を救う為に遣わされた我らクリスチャンは、その目的の為にも不思議と精神的、霊的に「殺されたもの」によく出会います。福音ゆえの神様の摂理です。



「私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。

あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。」(詩篇73:21)

当時、アサフが体験した試練はひどく燃える火のように厳しく、彼はその苦痛の中で「獣のようでした。」と過去を回顧しながら告白しています。

激しい試練ゆえに黙って立っていることさえできず、地面に打ちのめされてつぶされ、あたかも地を四足ではう、「獣のよう」だったという状態です。

本当に激しい試練は人として立ちおおせずにつぶされ、ただ御前にひれ伏し祈るしかありません。

イエス様は十字架を前にしてその過酷な死を十分知られ、ただお一人ひれ伏し命がけで祈られました。

「いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:40‐42)

ここで著者ルカは「ひざまずいて」祈られたと証言しますが、

著者マタイはその後の同じイエス様をこう証言します。

「そのとき、イエスは彼らに言われた。

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:38‐39)

「ひざまずいて」祈られた!(ルカ)。「ひれ伏して」祈られた!(マタイ)。

同じイエス様に対する二人の証言の違いはおそらく時差の違いです。

当初は、イエス様はルカの証言通り「ひざまずいて」祈られました。

しかし全人類の罪と病と呪いの一切を一身に背負って十字架に行かねばならない過酷な死を目前にイエス様は祈られ、その精神的な圧迫感と重圧は、我々の想像を絶するレベルで、もし重圧の激しさを数値で計測できるならば、何十万トンにも達したと推測されます。

その為、イエス様は当初の姿勢が崩され、ルカの証言する「ひざまずき」の祈りから後、マタイの証言する「ひれ伏し」の祈りまで完全に押しつぶされたのだと思います。

そのとき、その様は、まさにアサフの体感した試練、地を四足で伏して這う「獣のよう」だったでしょう。

さらに夜行性の「獣のよう」に、多忙な公生涯で、時を惜しんで夜間に祈られたイエス様。その究極的へりくだりと信仰は完璧でした。

血の汗を流しながら必死で祈られた知性の祈りの御言葉は聖書に記録された十字架への服従の祈りでしたが、その節々で3時間の間、イエス様は繰り返し信仰で「アバ!父」の御名を呼び求めたことでしょう。その御姿も大きな叫び声と涙で祈られ、あたかも「獣のよう」だったかもしれません。

今日、カリスマ、ペンテコステ系の諸教会がこんな具合に叫んで熱く祈るようにです。「主よー。主よー。主よー。アバ!父よー。」

雄たけびの祈りはいつの時代も有効です。御前に一人ひれ伏し祈る姿、それはまるで四足の獣が地面の低い所から創造者に食を求めて月明かりの中でほえるさまにも見えるでしょう。

「ガオー。ガオー。ガオー。…」

しかし、本気の切羽詰った命がけの叫ぶ祈りは、父なる神様の御心を感動させ、確かな奇蹟を起こせます。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

イエス様はまさにその祈りのスタイルから察して初代カリスマ、ペンテコステ系の聖霊派教会の祈り手のようです!

虫けら

「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――

あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。」(イザヤ41:14)

ヤコブは「虫けら」。主の御前、粉粉に粉砕されなければならない自我の問題を強調する表現です。

「虫けら」のように砕かれる体験はみじめで辛いですが、誰でも自我が砕かれなければ貴い主の働きはできません。

個性が強く強烈で、万事につき反抗的な野生的自我を打ち砕いて、神様の御心に心底従える素直な心を創り出すのがへりくだった祈りの力です。

「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」(マタイ21:44)

「この石」はイエス様です。祝福の秘訣はイエス様に出会って、いち早く自我が完全に砕かれることです。「虫けら」は文字通り石の下にいますが、直射日光や天敵から石に守られてもいます。

目立たない地を行く「虫けら」のように、日陰でも確実に生きていて、真面目で謙遜に与えられた使命を忠実に果たせますよう祈ります。



「イエスは彼らに言われた。

「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
(マタイ4:19)

人間と魚。クリスチャンが漁師、まだ信仰に入っていない人々がこの世を泳ぐ魚という例えです。そこで「人間をとる漁師」として魂をとらえる漁法を学ぶ必要がありますが、注目は魚は生き物。鮮度が大事、急いで傷つけずに手際よく回収することです。生きているうちが救いです。死んでからでは手遅れです。あせらずにあわてずに、しかし、素早く奉仕しないと大切な時を逃します。命相手の真剣な仕事だからです。イエス様が呼ばれた12弟子のうち多くが農業出身者ではなく漁業出身者です。それはガリラヤという港町の地形がおもに原因していますが、もう一つは、主は命がけで生きる真剣な働き人を用いられるという意味合いもあります。

畑で農夫が転んでも死にませんが、湖で漁師が転ぶと溺れて死に瀕します。

永遠の命に関わる天国の重大な一大事業です。そのため、いつも命がけで目覚めた働き人を主は捜し求めておられます。あなたです!

聖書に紹介されたガリラヤ漁師の3つの伝統漁法を補足に御紹介します。

漁法、その1 地引網 

「また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。」(マタイ13:47)

これは、時間をかけてひたすら待つ漁法で、TV伝道、ラジオ伝道、インターネット伝道、文書伝道や教会堂維持による看板効果など、あらかじめこの世に仕掛けておいた御言葉の網に魚が入ってくることを祈りながら待ち望むタイプの働きかけです。現代の各種メディアを媒体に諸教会の勇士たちは、至る所に御言葉の網を事前に張り巡らしています。

漁法、その2 刺し網 

「話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」(ルカ5:4)

これは、二そうの舟で協力して追い込む漁で、二人でチームになった個人伝道や皆で取り囲んで伝道する伝道集会のような組織だった伝道法です。

「深みに」とポイントが示されたように漁労長なる聖霊様の支持の元、ポイント攻撃的に的を得て要所、要所に働きかける一致団結しなければ網を引き上げられない共同作業的な組織だった伝道法です。

漁法、その3 投網

「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。」(マルコ1:16)

これは、投げつけると先端が広く広がる網を魚のいそうなポイントめがけて積極的に何度も投げつける、当たれば入る路傍伝道や投げつける預言タイプの伝道です。網が落ちた湖底の真下に魚がたまたま泳いでいれば包まれてゲットできますが、いないところに何度投げつけても効果がありません。

前者、2つの漁法に比較すると網の大きさから言えば最も局地的で小規模な働きかけとなります。

おのおのの漁法に長所と短所があります。そこで最もいい漁法はこれら3つの地引網と刺し網と投網をミックスして至る所に網を張り巡らすことです。さすがに広い湖中を回遊する魚の群れも、至る所、網だらけならばもう逃げられません。どれかに掛かります。ハレルヤ! 聖書の御言葉をあらゆる方法で時がよくても悪くても宣べ伝えることが大事です。