先日、教会で献児式がありました。

献児式って何?
献児式は、クリスチャンのご両親が、神様にお子さんを喜びと感謝を持って捧げるお祝いです。牧師が、お子さん、そしてご両親のために神様の祝福を祈ります。

 

1サムエル1:27-28 
「私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。 私はこの子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」

 

サムエルは主にゆだねられた者として健やかに育ち、イスラエルのリーダーになり大いに活躍しました。

新約聖書ではイエス様が聖誕された後、献児式の原点になる祈りをされています。


ルカ2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。2:23 ──それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」と書いてあるとおりであった──2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。2:27 彼が御霊に感じて宮に入ると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、入って来た。2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」2:36 また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、2:37 その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。2:38 ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。
 

シメオンとアンナから祝福を受けた幼子イエス様は、期待に応えて成長されました。
ルカ2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。
聖書では、はっきり書かれた聖餐式と洗礼式とは違い、献児式と洗足式ははっきり書かれていないので、採用するか否かは諸教会が決めますが、イエス様の時代にあった聖餐式と洗礼式同様、献児式と洗足式の原点が記されています。私も今年、デルフィン牧師の足を手で洗い、私の足も洗い返してもらいました。なんともあたたかな集会です。 洗足式とは互いに足を洗い合う集会です。


ヨハ13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

 

その際にイエス様はこう仰せられました。
ヨハ13:13 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。13:14 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。

ヨハ13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。
 

献児式は、幼子への祝福祈祷であり、皆で執成し祈る時間ですが、重要なことはご両親の信仰です。ご両親がしっかりとした信仰を持つとき、幼子は一生涯クリスチャンとして守られ、祝福された人格者へと成長します。

私たちの教会では、生後、赤ちゃんの時にご両親が願われれば、献児式を致します。

また、幼児洗礼も致します。

その後、ユダヤの成人式バールミツバに倣って13歳になったとき、大人として認め、本人の意志の確認のもとで、救い主イエス様を本当に信じるなら、全身水につかる洗礼式を新たに行います。 

 

来月、13日にもバイブルキャンプ兼、洗礼式が今年もありますが、全身、綺麗な上流の川に入って洗礼を受けます。古い自分がイエス様と共に死ぬのが入水であり、水から上がるのはイエス様と共に新しく生きる復活を意味する信仰告白、神様への正しい良心の誓いです。イエス様がヨルダン川に入られたので、なるべくそれに近く流れのある川での洗礼を致します。それは移動するにも毎年、レンタルバスを借りて、他の聖徒たちは車に便乗して、様々な面倒がありますが、一生に一度、永遠のいのちに入る条件を満たす洗礼式は重要ですから、ある人は仕事を休んでも参加します。むしろ犠牲を払って参加する方が恵みが大きいとも言えます。イエス様の支払われた十字架の犠牲愛を考えれば、遠方に洗礼式のため行くこともさほど問題はなく、感謝なことです。