こんな話があります。

ヨーロッパの ある刑務所に行くと、獄舎の壁に落書きのように立派な詩が書かれていて話題になりました。その獄中の壁に書かれ た言葉は、

「私は太陽が輝いていないときでも、太陽を信じる。私は愛を感じないときでも、愛を信じる。私は神が 沈黙しているときでも、神を信じる」。

 

囚人にとって意味深なメッセージですね。太陽が輝いているのが見えない。愛も感じられない。でも、事実太陽はあるし、愛も実在する。また、神が沈黙しているかと思えるような囚人の1人でも、神の存在を信じるというのです。

 

 私たちは、見えないから何もないと否定してはいけません。今この時間、世界中にたくさんの国々があって、多くの人たちが存在しています。見えないです。でも、知っております。私たちも神様が見えないからといって、いないんだと否定しては愚か者になってしまいます。見えないけれども、存在されるまことの神がおられます。

神は目に見えない霊なるお方だから、目で見える 形で存在してこの世に来てくださいました。それが、神が人となったイエスキリストなんです。

 

 もし、目に見えない神様の本質、実体を見たいなら、目で見える形で来られたイエスキリストを見詰めましょう。聖書の福音書を読みましょう。イエス キリストは病める人々の病気をことごとく癒され、傷ついた者を慰め励まし天国を伝え、罪深い生活の人々を義人に 生まれかわらせ、そして死人さえもよみがえらせ、数々の愛のあるすばらしい働きを示されました。これが神の心。 神の本質の完全なるあらわれがイエスキリストです。神のお心は愛です。今、私たち全員を愛しています。誰1人裁くつもりはなく、許して、天国に入れたいのです。

 

 しかし、たった1つ、罪の問題だけが課題です。なぜなら、罪を持ったままでは人は天国に入れないからです。ある方がまぼろしを見たそうです。自分が神様につぶやいていました。

「神様、どうして私のような立派な人物が天国に入れないのでしょうか」

見ると、 彼は地獄に落とされていました。彼は神に叫びました。

「私のような者は天国に入るべきです」。

するとその瞬間、 少しだけ天国の扉が開いて、光がバーッと照らされたときに、まぶしくて清くて、清くて、その前で自分が余りにも罪深くて、暗闇のほうに自分から逃げていったそうです。そのときに彼は目を覚まされました。

「そうか。地獄に自分が引かれるのは、神の光の前で、自分に暗闇があるからだ。神が離れよ、出ていけと言っているんじゃない。私の中に罪があって、私の中に闇へ闇へと引き込む悪い性質があったんだ」と気づきました。彼は それ以降、悔い改めたようです。

 

 私たちの罪、この罪の力が私たちを闇へ、闇へ、地獄の滅びへと引き込むのです。この罪を解決しなくてはいけません。それが私たちの救い主、イエス キリストを信じるということです。イエス様が私の身がわりとなって刑罰を全部受け、私が元来、行かねばならない 地獄の審判を過去、現在、未来までも、全ての罪を身がわりに背負って十字架で死なれたこと、3日の後に死者の中からよみがえられたことを信じるとき、私たちの罪は許され、イエス様の血潮でどんな汚れた罪も洗い清められ、天の神の国に入れるのです。ですから、私たちは幼い子どものように素直になって、イエス様の救いを受け入れましょう。そのときに神は、すぐれた天国の都を、イエスを信じる者にただで与えてくださいます。

 

 人は親と会うと、本当に心が和み、癒されるような気持になります。私はもともと小学生時代は、父と遊んだ記憶がいっぱいあります。一緒に温泉に行ったり、釣りに行ったり、山に行ったり、川に行ったり、たくさん遊びました。でもある時期から、余り遊ばなくなった記憶があります。私は中学1年生ぐらいから悪い友達ができて、その悪い友達と一緒に悪いことをし始めたんです。お店に行って万引きしたり、うそをついたり、こっそりたばこを吸ってみたり、酒を飲んでみたり、いろいろ悪いことをした。そして、悪いことには災いが追いかけてきます。やたらトラブルがふえて、けんかがふえました。 誰かに殴られたりもしました。

 

 親との交わりを避けたのは、あるとき、殴られた後、ぶす色になっているのを見られたくないから部屋にこもる。また、部屋の中に盗んできたものがふえてきた。万引きした香水、万引きした漫画の本、万引きした自分が持たないようなもの。そういうものをいっぱい持っているから、これはまずい、隠さなきゃいけないと思いました。私がいないときに親が部屋をあけて、いろいろ あるものがバレてはいけないと思って、部屋の扉に自作の鍵をつけたのです。そうしたら、親との距離がますます遠のきます。さらに、たばこをいたずらするからにおいがつきます。親に近づいたときに、においでバレて「たばこを 吸っているな」となってはまずいので、またちょっと距離を置く。内緒で酒を飲むと顔が赤くなる。中学生ですから、酒を飲んだのがバレたらまずいので、それでも親から離れる。

 

 このように、悪いことを繰り返すにつれて、どんどんどんどん親から離れていったのです。でも、私の記憶ある限り、お父さんから「おまえは最近悪いやつだ。汚れた者、私から離れていけ」なんて一回も言われたことはありません。なのに、私自身がいっぱい罪を犯して、罪の罪責意識の中で自分から離れていくのです。

 

 罪の性質は分離です。分離は死をもたらします。今、父なる神様と全人類が同じ関係です。父なる神様は、「罪人の人間たち、汚れているから離れていけ」なんて誰1人にも言っていません。むしろ「来なさい」と、神は変わりなく愛をもって招いておられます。なのに人間自体が、あの罪、この罪、次々と開発して、発明発見してやっていくから、結局、罪の性質で闇へ、闇へと引かれて、父なる神から離れていく。人間は本能的に知っているんです。罪ある者は裁かれる。神の前に立たされたら、全部バレてしまう。だから、光よりも闇を愛し、自発的に神から離れていくのです。この問題を解決しない限り悪循環。神は招くのに、人はいよいよ離れていく。

 

 だから神の手を握り、我ら人類の手を握り、仲介者となり1つにしてくれる方が必要だったのです。それがイエスキリストです。イエス様は私たちの罪を背負い、身がわりとなって私が受けねばならない罰を、地獄の審判を受けてくださったんです。それが十字架です。血を流し、恥を受け、悩みを受け、痛みを受けて、十字架で死なれ、死者の中から3日目にイエスキリストはよみがえりました。

 

 このみ名を信じる者は、神の子とされる特権が与えられております。人間のよい行いではありません。倫理道徳でもない。宗教でもない。苦行でもない。断食でもない。ただイエス様を信じて、悔い改めて、信じるだけで天国に入れます。イエスは我が罪の身がわりに死んで、3日目によみがえった。信じるとき、イエス様の血潮が、汚れた私の罪の心を洗い清めるのです。泥に汚れたら洗えばいいんです。心が汚れたら、イエス様の血潮しか洗うものがありません。イエス様の十字架で流された罪なき血が、私たちの汚れた心を清めて、雪のように白くし、神の子にふさわしくし、天国を与えてくださいます。

 

 もう間もなく、私たちはセミがモズの抜け殻を後にして飛び立つように、この弱い肉体を脱ぎ捨てて、天国に入るときが来ようとしております。その美しい旅立ちのときを信じて、信仰をかたく持ちましょう。本当に神様はおられます。目では見えないけれども、祈れば体験的に知ることができます。それが信仰の力です。

 

 受信機が必要でしょう。テレビ放送を見たかったら、テレビという受信機が必要です。ラジオを聞きたかったら、ラジオの受信機が必要です。何か受信する媒体があったら、目に見えないけれど実在するいろいろなものをキャッチできます。音波も電波も周波数全部キャッチできる。

 

 同じように、神様をキャッチする。 神の周波数と合致する。それが信仰における祈りなのです。信じるという力を働かせたら、神様がわかるようになり、あとはクリアにキャッチして、テレビを見るかのように神の栄光をかいま見ることができます。信仰を働かせましょう。それができる私たちなんです。私たちにできないような救いを、神は遠く彼方に準備していません。み言葉はかく身近に、私たちの唇にあり、天のみ国はそこにある、あそこにあるじゃない。私たちのただ中にあります。信じるだけで、すぐに心にイエスキリストは入ってこられ、聖霊に見出してくださいます。

 それでは、お祈りしましょう。私たちはこの宇宙が神によってつくられたことを知っております。それではお祈りいたします。次の言葉をお祈りください。

 

愛する天の父なる神様、感謝いたし ます。

 

神様、人間たちの科学、天文学、いろいろなものがどんどん発達するにつれて、聖書の記述がいよいよ真実であることが明らかになりつつある、そのような時代に私たちは生かされております。神様、科学の法則に全く矛盾していない聖書の記述こそ、実に本当の真実、真理であります。

 

 神様、どうぞ私たちこの世の中で生きる限り、最も大事なものを見失うことがないように、すなわち全てを創造され、支えておられる主体者、主権者である神様を見失うことがないように、神様、私たちの霊の目を開いて、悟りの心を与えてください。

 

 実に神様を知るには、目に見える形で神が人となって来られたイエスキリストを見詰めるほかありません。イエス様を見るときに、そこには愛が満ちあふれておりました。罪深い取税人や遊女たちをあわれみ、彼らの真ん中に入って天国を伝え、罪の生活から真っ当な生活に生まれかわらせ、病める病人たちの真ん中に入って、彼らの多くの病を癒し、また悪霊によって苦しむ者たちをそのわずらいから癒し、悪霊を追い出されました。死んで悲しんでいる者のもとに行き、死者をよみがえらせました。

イエスキリストのなされたみわざは、全て生き生きとした命に満ちたすばらしいものであり、神のみ心の本質の完全なるあらわれであります。神のイメージの完全なるあらわれであります。

 

 イエス様、あなたを見詰めて祈ります。私の罪のために十字架にかかり、死んで3日の後によみがえったイエス様を見詰めますので、イエスの血潮の注ぎが今あらわれ、私の閉ざされた霊の目が開かれるように、神様がはっきりと体験的にわかるように、いよいよ信仰を強めてください。

 

 私たちは今、信仰という、祈るという受信機を働かせておりますから、神様の周波数と合致して、聖霊の働きの中、神をかいま見るように霊の目を開いてください。

感謝して、イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

 お祈りは、決して難しくありません。強く神を求めれば、強く神は働かれ、あらわれます。弱く求めたら、それぐらいです。壁にボールをぶつけるとき、強くぶつけたら、壁があるなら絶対に強く返ってきます。壁がなかったら返ってきません。軽く壁にぶつけたら、軽く返ってきます。

 

 強く祈りましょう。神様は本当におられます。神様は私たちの祈りに応えてくださるお方です。本当に神様はおられるんですか。目に見えませんよ。でも、神様がわかるなら、教えてください。私の閉ざされた霊の目を開いてください。真剣にイエスの名によって、この時間祈ってみましょう。見えなくとも、必ず神様を体験できるように、私にふさわしい形で神様が教えてくださいます。

 

 神様を発見したらおもしろいです。子どもは迷子になったら心配です。でも、迷子の子どもがお父さん、お母さんを発見したら、もう心配ないです。お父さんと一緒なら、暗い夜道も歩けます。同じです。神様を発見するのは、父なる神様のみもとに帰ること。それはすばらしいことです。神のみもとに帰りましょう。

 

 もし皆様の中で、まだ主なる救い主の神様がわからない方がおりましたら、神様をはっきりと体験できるように、悟れるようにお祈りしたいと思います。

 

 愛する天の父なる神様、感謝いたします。

 

 主イエスキリストのみ名によって、 私たちが正直になって神に祈るとき、神を求めるとき、私たちは神を知ることができるから感謝いたします。神様は遠く離れた天国にいるのではない。かく身近なところ、実に私たちは神の中に生きて、動いて、存在しております。神を求めるならば、見出すことができます。

「私を呼び求めなさい。私はあなたに応え、あなたの理解を超えた大いなることを示そう」と約束されております。だから私たちは祈ります。イエスのみ名で、どうか私たちの閉ざされた霊の目を開いて、神様がわかるように祝福してください。

 

 逆転発想の感覚をよく体得して、人とは違う生き方ができるように。すなわち、許せないようなときに、復讐ではない、逆転発想で許すということを行うように。人々の上に立つときに、むしろしもべとなるよう に。また全て逆転発想の聖書の教えに従って、私たち、神様の法則によって生きる者となれますように。

 

 多くの人々が不信仰で広い道を行きます。しかしその広い大路は、最後は滅びの恐ろしい道であります。むしろ狭い道、曲がりくねった険しい道、その狭い門から入りなさいというみ言葉どおり、逆転発想で狭い道に入っていきます。しかしその狭い道は、やがてはシオンへの大路として開かれ、天国になります。

 

 神様、いつも私たちは、世の常識ではない、聖書の常識を基準として生きる者になれますように。聖書の法則をいつも基盤として判断するように、私たちに総合的な見分けの力を与え、霊の目を開いてください。

 

 神様、ありがとうございます。神の子らの上に、豊かな祝福がありますように、聖霊の豊かな注ぎがありますように祝福してください。私の唇は神をたたえます。私の舌はイエスを賛美します。どうか主なる神様、いつもイエスを感謝し、喜び、イエスを力の源としてこれからも生きる私であれますように、導いてください。

ハレルヤ。主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

 

一緒に告白してみましょう。以下のように告白してみましょう。神様に向かって、一緒に大きな声で言ってみましょう。

 

 「私は神様を信じます」

 「私はイエス様を信じます」

 「私の罪のために十字架にかかりました」

 「血を流して死なれました」

 「3日目によみがえりました」

 「そのことを信じます」

 「アーメン。私は神の子です」

 「救われました。アーメン」

 「ハレルヤ。感謝します」