聖書の語る愚か者とはどういう人ですか。

 

何か変な行動ばかりする人を愚か者というのですか。そうではありません。頭の悪いIQの低い人を愚か者というのですか。聖書では違います。聖書のいう愚か者、それは能力のない人でも、IQの低い人でもありません。聖書は、詩編14編の1節にこう語ります。「愚か者は、心の中で神はいないと言っている」というんです。聖書の規準するところの愚か者とは、心の中で神様なんかいないと言っている人。それが愚か者だというんです。

 

 私たちは愚かになってはいけません。偶然の産物なんか一切ありません。ネクタイもワイシャツも、全て誰かがつくったから、結果としてこの世に存在するんです。これが何千億年の進化の後に、たまたま合体してこのようにワイシャツ、ネクタイができてしまった。そんなことを力説したら、それこそ愚か者です。

 

 私たち人間は、神に似せてつくられているから、かなり崇高で、父、子、聖霊の神に似せた三位一体の神のように、知・情・意を持ち、また霊・魂・肉 を持っている存在で、賢いです。いろいろな文明の利器をつくります。でも、全てはつくった人とつくった目的があるのを知っています。マイクであれば、工場の誰かがつくったのでしょう。目的は声を拡散するためです。全ての物がつくられた目的を持ち、つくった者がいる。

 

 人間もそうです。こんなにすぐれた崇高な人間が、偶然に進化してできるわけがありません。確かに生物は進化するし、変わるときはあります。でも、1つの個体の全部が異変してしまうような突然変異はありません。

 

 生物科学の領域では、10万回に1 回ぐらいのレベルで突然変異はまれにあるそうです。だけど、その10万回に1回起きる突然変異は、必ず遺伝子の破損によりレベルが下がったもの、前よりも劣ったものに突然変異するというのが事実なんです。前のものよりもっとすぐれてよいものに変わってしまう突然変異はあり得ないことです。ですから、サルやアメーバ、ミトコンドリアが遺伝子破損によって悪くなるということは、10万回に1回突然変異的にあるかもしれません。色が抜けて白いハエになった、赤いハエになった、それは遺伝子から色素が抜けてしまったもので、失敗したものです。悪くなったものです。逆によくなったというのは事例がありません。

 

 それなのに進化論は語ります。人間はサルやアメーバがどんどん進化して、よくなって、よくなって、よくなってこうなった。それは悪魔のついたうそであります。人間は神様がつくられたのです。イエスキリストによって神がつくられた神様の作品であり、よい行いをするためにつくられたのです。このことを確認しなければなりません。

 

 以前、NHKのテレビで、宇宙の起源についての番組が放映されていました。その中で宇宙の起源にかかわるさまざまな説が紹介されていましたが、一 般的に宇宙はビッグバン現象、すなわち光の粒子の爆発によってできたと放送されて、そう信じられております。そこでアナウンサーが東京大学の教授に、「では、その起源であるビッグバン自体は、どうやって存在するようになったのですか」と質問しました。ビッグバン、すなわち光の粒子がバーンと爆発していったのは、一体どういう力で、 誰がそのようにしたか。どうしてビッグバン自体が存在したか。これに対して、東大教授は真面目な顔をしながら、「それは神様がつくったとしか言えませんね」と答えたんです。

 

 確かに神様の足跡、通られた跡である、人間の言葉でいうならばビッグバン現象。そこまでは見つけることができた。だけど、それ以上、どうしてそれがそうなのか、その主体者、そのように行ったお方は誰なのか。これはいかにすぐれた学者であれども、結論がないということです。

 

 聖書を見てみましょう。創世記の1章1節。聖書の一番最初です。そこにはこう書いてあります。

「初めに、神が天と地をつくられた。地は形なく、むなしく何もなかった」。初めに神が天地をつくられたときには、全てが何もなかったところに神が創造されたので す。旧約聖書の創世記1章には、「そのとき闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき神が『光よ、あれ』と仰せられると光ができた」というんです。これはまさにビッグバン現象でしょう。最初の1日目に神がつくられたのが光だと、聖書は語るのです。確かに現代の天文学も、相当のレベル当たっています。しかし、その根源なる創造主なるお方を見失っている。確かにこの製品はこのようにして工場でつくられたといっても、誰がつくったかがわからない。つくられた目的もわからない。そのような状態であっては寂しいです。

 

「初めに、神が天と地を創造され た」。聖書の一番最初です。「初めに」というのが、すなわち神様が時間をつくられたということです。初め、時間の創造。そして天をつくられた。それは空間の創造。それから地をつくられた。それは物質の創造です。ですから、 初めに神が天と地をつくられたというのは、神様が時間と空間と物質を創造されたということです。そして、その時間、空間を超越した神様は、そこに人間を置かれたのです。この時空の中に人間を置かれたのです。これがいわゆる3次元です。

 

 聖書はこれについて、こう書いてい ます。「信仰によって、私たちはこの世界が神の言葉でつくられたことを悟り、したがって見えるものは、目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」(へブル11章3節)

神の言葉によってこの世界はつくられた。神が「光よ、あれ」と仰せられると光ができた。そのことを聖書は語っています。

 また、ローマ4章17節には、「彼はこの神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」と書いています。神様がこの天地をつくられた。初めに神がつくられたということです。

 

 創世記を見ると、私たちはわかることがあります。創世記の1章2節を見ると、初めに神が天地をつくられたのですが、そのときに「地上は形がなく何もなかった」と書いてある。すなわち、神様がこの宇宙をつくられる前は、宇宙は何もなかったというのです。

 

 時々、宇宙人は一体存在するのかという話を聞く人もあると思います。聖書を見たら、答えはノーなんです。クリスチャンである者は、聖書からこれを悟らなくてはいけません。なぜなら、神が天と地をつくられた。それ以外のつくられたものは、全て創世記に書いてありますが、宇宙人はつくっていないんです。

 

 聖書を見ると、神様は1日目に光をつくられ、闇を創造されています。そして2日目には、大空の上の水と、大空の下の水(海)をつくっておられます。3日目には陸地をつくって、その陸地に植物を種類ごとに植えられました。全て神がそのようになれと命じるとそうなる。そしてさらに翌日、4日目には、神様は太陽と月と星をつくられています。5日目には、大空を飛び交う鳥の群れをつくられました。本当に神様のみわざは全て命に富み、バラエティーです。そして、6日目に当たっては、今度は地上の生き物、家畜、這うもの、種類に従って野の獣を創造された。このようにして神様は6日間かかってこれら1つ1つの創造をなさり、そして最後に人間をつくられたのです。アダムとエバです。

 

 創世記の1章のみ言葉を見ると、その中で神様の創造のみわざは21節、「それで神は海の巨獣と、水に群がりうごめく全ての生き物を種類ごとにつくられた」というのです。「海の巨獣」という言葉が創世記1章21節に出てきます。海の巨大な獣、恐竜ですね。海の巨獣という言葉が出てくるので、恐竜はいたはずです。ですから、恐竜まではオーケー。だけど、それ以外の例えば宇宙人とか、こういったものは神様はつくっていません。創世記を見ると、そのリストにないんです。ですから宇宙人はいないと、ここからクリスチャンは悟ることができます。

 

 さらに神様の創造のみわざについて、ヨブ記の26章をみましょう。聖書の真ん中あたりに詩編がありますが、その1つ前にヨブ記というのがあります。ヨブ記の26章を見ると、神様がこの地球を、宇宙空間の何もないところにポッと置かれたことが書かれております。ヨブ記の26章6節、「陰府(よみ)も神の前では裸であり、滅びの淵も覆われない。神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる」と書いてあります。「地を何もない上に掛けられる」、この場合の地というのは地球を指しています。別の訳で見るともっとよくわかるのですが、これは約3000年前に書かれた世界で最も古い書物のヨブ記です。その中に、神様はこの地球を何もない上に掛けられたと書かれているのです。

 

 今から3000年も前の、当時の聖書を信じない人々にとっては、恐らくこれはおかしな話だったと思います。物体を手放したら下に落ちてしまいます。それなのに神様は、この地球を何もない上に掛けられたというのです。空中に浮いているというのです。おかしな話です。だけど現代人の私たちはよく知っています。宇宙に行ったら、確かに聖書の「神は何もない上に地を掛けられた」というみ言葉どおり、地球は宇宙空間にぽっかり浮いています。聖書は創造主の神の書物だから、昔からそれがくっきりと書かれていました。

 

 でも当時、これを信じない、聖書を あざ笑う人たちがいました。例えば、古代のインド。インドの古代の天文学や科学では、真面目にこう教えられていました。地球は1頭の大きなゾウの背中に乗っていて、そのゾウの下には1匹の大きなカメがいて、そのカメの下には1匹の大きなコブラがいる。そのような段階の一番上に地球が乗っている。これこそおかしな話ですが、古代のイ ンド人の世界では、これが本当だと信じられていて、地球が何もない上に掛けられているという聖書の言葉は、何だかおかしな話。恐らく旧約時代の人たちにとっては、ヨブ記を読んだとき、本当に信じられないような話だったと思います。

 

 イエス様の弟子の1人であるトマスは、新約時代、インドに出ていって宣教したのですが、「神は地球を何もない上に掛けられた」と彼が言ったら、イ ンド人から笑われたのではないでしょうか。「いやいや、地球というのはそうではない。まずはゾウがいて、それか らカメがいて、コブラがいる。君は全く学問がないな」と、逆に言われたかもしれません。

 

 また、もうちょっとまともな話に聞こえるのが、古代のエジプト。そこではこのように教えられていました。地球は5本の柱で支えられていて、上に板のように置いてある。余り端っこまで船に乗って行き過ぎたら、滝になっていてドーンと落ちてしまう。だから、余り遠くに行くなよというのが航海です。5本の柱で支えられている地球。さっきのカメとかコブラよりは何となく信じやすいけれど、これが事実でないことを私たちは知っています。でも、古代のエジプト人の真面目な哲学の中では、地球を何もない上に神が掛けられたという聖書は、それこそもっとお笑いです。何もなかったら地球が落ちるじゃないか。でも長い歴史の後、結果として、神様が地球を何もない上に掛けたというのが正解だということが今はわかります。

 

 また、ヨブ記26章の10節を見ると、「水の面(おもて)に円を描いて、光と闇との境とされた」と書いています。ここの訳が新改訳はわかりづらい のですが、別の訳の聖書を見るとこう書いています。ヨブ記26章10節の別訳。

「地球の形は丸く定められ、球形になった」と訳されている聖書があります。地球は丸いと書いているのです。これも当時の人々にとって信じがたかったかもしれませんが、今の私たちにはこれが事実であることがわかります。ですから、聖書ってすごいですね。

 

 箴言を開いてみましょう。ここにもすごいみ言葉があります。箴言の 8章26節に神様が大地の始まり、世界をつくられたときの経緯が書かれています。そこには、「神がまだ、地も野原も、この世の最初のちりもつくられなかったときに」と書いているんです。「神が天をかたく立て、深淵の面に円を描かれた」。ここでも地球は丸いと書いているのですが、加えて、「最初のちりも神がつくられなかったとき」という言葉があるのです。

 

 最近の科学者の世界で、聖書の記述が科学と一致したと驚愕されている事実があります。地球物理学者の竹内均という東大の先生、カメの甲羅の黄色いめがねをかけた博士ですけれども、彼はこう言っています。火の玉地球説というのは、1940年代からだんだん形勢不利になった。そしてかわりに、ちりあくた説、すなわち低温起源説が一般的になってきた。聖書の言葉に「この 世の最初のちりも神がつくられなかったとき」とある。すなわち、地球の最初に神がビッグバンを起こされた後に、 最初はちりがあったと聖書に書かれているのです。これが正しいことに地球物理学者の竹内均は気づいて、彼はクリスチャンではないと思いますが、世界の歴史は聖書の記述どおりだ、科学的に正しいと書物に 書いております。

 

 地球の最初は冷たく、ちりあくたがあったそうです。それが後に分子となって形成されて、そのちりをもとに地球が誕生したと最近わかってきていますが、聖書はそれ以前から、「この世の最初のちりも神がつくられなかったとき」と書いているのです。

 

 さらに、箴言の8章29節には、 「知の基を神が定められた」という言葉が出てくる。地の基があるというんです。いわゆる300万気圧もあるよう な地球のコア、核です。それがあることは、今は一般的に知られております。大気の起源をモデル計算した結果、 300万気圧はあると言われる地の基があるんです。聖書には、最初から地の基を神が定められたと書かれていま す。これ以外にも1つ1つ聖書の言葉を探していくと、本当に聖書は間違いなく神の書いた言葉だと私たちは知るに至ります。

 

 ユダヤ人のIQ200と言われた物理学者のアインシュタインは、過去、このように語っています。霊の世界を彼は信じていたようです。「私たちのいる地上を去っていった者たち、すなわち死者たち、彼らは私たちから遠く離れているのではない。ただ、私たちと異なった周波数帯において存在しているだけだ」。死んだ後にも、彼らは存在し続けている。そして、別な次元にいるんだと彼は言っているのです。

 

 聖書はどうなっているか。死後の世界について、コリント15章40節。

「天上の体もあり、地上の体もあり、天上の体の栄光と地上の体の栄光とは異なっている」と書いてあります。目で見える形の肉体を持っているように、死んだ後の霊の世界の体もある。その栄光と、人間の体の今の栄光はまた違うというんです。地上の体の栄光といったら、ハンサム、美女、そのあたりでしょうが、天上の体の栄光は別だというのです。心清い人が美しくなるのです。

 

 人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。夏はセミがミンミンと鳴きますが、セミは8年ぐらい土の中にいて、地上にようやく出てきて木の上に登って脱皮したら、わずか1週間か2週間で亡くなってしまいます。あのセミの抜け殻のように、私たちも着物を脱ぎ捨てるかのようにこの肉体を脱ぎ捨てて、本体となって天国に飛び立つときが来るのです。それがイエスキリストの空中携挙と呼ばれる再臨のとき、ラプチャーとも言われますが、その日に起きるんです。その日に、クリスチャンたちがみんな空中のキリストのもとに引き上げられ、地上から天国に移されるときに、 クリスチャンたちが集団失踪した、宇宙人にさらわれたと思ってはいけません。

 

 私たちはみんなキリストのもとに集められ、天国に入ることが定められている。なぜならば、イエスを信じる者は、死から命に移っているからです。誰でも天国に入る資格が与えられます。聖書は語ります。私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおります。私たちは地上で見えるものだけが全部ではないことを知っています。