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過去の私たちは、神様がいらっしゃることもわかりませんでした。でも今は、イエス様を信じたときから、盲目に生まれついた人が目を開かれたかのように、神様がわかるようになりました。これはすばらしいことです。神がともにおられるから、問題が同じように降りかかっても大丈夫。神様が解決してくださる。主イエス様が守られる。全部が相働いて、問題さえも益に変わると信じることができます。

 

私たちはこの逆転発想、すなわち、世の人が信じない狭い細い曲がりくねった道、信仰の道に思い切って入ってみる。そこにこそ幸いがあるということを確認したいと思います。逆転発想、ある意味、人のしないような生き方、実にそこにこそ隠された富があって、おもしろさがあるということであります。大胆にやってみましょう。人々がやらないことをやってみるのも意外とおもしろいです。

 

 東京の稲城市にある幼稚園が、6年前から新しい試みをしているそうです。今は少子化で、幼稚園さえも時につぶれるような時代ですが、この幼稚園は 東京23区の中心部からも、ぜひ子どもたちを通わせたいと応募が殺到して、高い倍率になるそうです。この幼稚園 の経営が難しい時代のただ中で、どうしてこの幼稚園が成功しているのか。稲城にあるこの幼稚園は、教育方針を6年前から大きく変えました。普通の幼稚園は、子どもたちにけがをさせまいとして最大限の注意を払って、過保護に近いぐらい徹底的に安全な環境をつくる。それが普通です。でもこの幼稚園は逆転発想です。子どもたちにけがをしないように何もやらせない状態で過保護に育てたら、むしろ子どもの人間性がダメになる。それでこの幼稚園では、逆に運動を積極的にやらせた。子どもたちに跳び箱の8段跳びとか、後ろにひっくり返るバック転とか、こうい うことにどんどん積極的にチャレンジさせる。そして、長い距離を走らせる。

 

 最初は、園児の親たちから、それは ちょっと危険だと反対もあったそうですが、その後しばらくすると、跳び箱の8段跳びとかブリッジ、そんなことの1つ1つがおもしろいようで、子どもたちが生き生きと輝いたのです。そして、幼稚園で一生懸命体を動かしてスト レスを発散すると、子どもたちはほかのことにも集中して一生懸命になる。その姿を見て、これはむしろよいことだと、非常に人気の幼稚園になったそうです。思い切った大胆な逆転発想で大成功した事例です。

 

 何もかも常識を覆すのが全てとは言いませんが、時には思い切った逆転発想の中で成功できる未知なる領域が、実に私の個人の生活の中にもきっとあると思うのです。こういった全てに共通した逆転発想を、ちょっと自分個人に当てはめて、よくよく祈りながら考えてみましょう。いつも私はこのように立ち振る舞う。その自分の中の常識を逆転してしまうのもおもしろいかもしれま せん。

 

 例えば、イエス様はこういうヒントを与えられます。自分を愛してくれる者にだけよいことをしたからといって、一体何の益になるだろうか。自分に挨拶する者だけに挨拶したからといって、それは異邦人でも同じようにしています。むしろ異邦人がしないようにしなさい。すなわち、自分に挨拶しない人に積極的に挨拶したり、自分によいことをしてくれない人によいことをしたり、そういう逆転の生き方の中にこそ、意外とおもしろいものがあります。

 

 あるいは、積極思考という生き方。 この世では、当たらず、さわらず、深くかかわらないで、ほどほどの距離を保ちながら全てにおいて生きるような面がありますが、イエス様は逆です。積極的に生きることを教えておられます。例えば、あなたの右の頬を打つ者がいたら、左の頬も向けなさい。1マイル行けと言われたら、2倍の2マイルその人と一緒に行きなさい。全て積極的にどんどん進んでいく生き方。そういった1つ1つを実施してみると、意外とその中におもしろい不思議があるものであります。

 

 また、許すことについてイエス様は教えられました。私たちは誰かに嫌なことをされたら悔しいし、復讐し返したら、あとはすっきりして心がおさまる。それが一般的には普通のことかもしれません。しかし、クリスチャンはそうであってはいけません。あなたを迫 害する者、あなたを嘲弄し恥辱を与える者、あなたを乗り越えていく迫害者、その者のために祈り、祝福をせよと言うんです。あなたの敵がもし飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませなさいとイエス様は教えられます。まさにこの敵を許す教え、これは一般の常識とは逆の逆転発想でしょう。でも、愛の基礎は許すことです。思い切って許しをしてみたら、そこからすばらしいことが起きるのです。

 

 聖書は語ります。愛は全ての背きの罪を覆う。私たちが自分を傷つけた者を許すということは、大いなる美しいことです。イエス様はまさにそれを実践されました。十字架にくぎづけになったときに、ご自身をくぎ打ち殺す者たち、敵のために

「父よ、彼らをお許しく ださい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と、愛をもって自分の敵のためにとりなしておられました。私たちもこういう逆転発想の中で、通常の人がとらないような行動を大胆にやってみる。これは本当に大事なことです。

 

 またイエス様は、もし豊かになりたいなら、人々に与え、施すことを教えられました。逆転発想でしょう。普通は、豊かになりたいなら、預貯金を蓄えて、けちになって一切出さない、使わない。でもイエス様は逆です。豊かになりたかったら、与えなさい。施しなさい。どんどん散らしなさい。そして人々の上に立ち、トップになりたいと思ったら、みんなのしんがりとなり、しも べになりなさい。全く逆転発想です。

 

 聖書はそれがすごく多いんです。あとは信仰で信じて行えるかどうかに祝福はかかっています。思い切ってやってみたら、多くの隠された祝福がそこにはあるのです。私たちが許せない人を許してみたら、そこに神の和解と祝福があり、奇跡があります。人にどんどん与え、施す人が、むしろ逆に豊かになれるのです。

 

 聖書では、主イエス様ご自身は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは、私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためであると、第2コリント8章9節に書いてあります。イエス様は、天国の王様です。もともと天国におられた限りには十分豊かで、ないものは1つもない。完璧に豊かな王の王です。ところが天国を捨てて、貧しい人間となって、この世に大工のせがれとして生まれてこられました。それはイエス様の貧しさによって、私たちが富む者となるための身がわりだったんです。ですからイエス様は今、十字架以降よみがえって、天国に帰られ、栄光の王座につかれて富と豊かさに戻っておられます。私たちは豊かになりたいなら、与え、施すことが大事です。

 

 ガラテヤ3章13節以降にはこう書 いてあります。キリストは私達のために呪われた者となって、私たちを律法の呪いからあがない出してくださいまし た。なぜなら、木にかけられる者は全て呪われた者であると書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福がキリストイエスによって異邦人に及ぶためである。イエス様は天国で豊かだったのに、全てを捨てて人として来られ、しかもその後、30歳から立ち上がり、約3年半、非常に厳しい貧しい生活です。ご自身、「人の子は枕するところもない」と言われるぐらい非常に忙しく、もともと大工だったのに住む家もないような旅暮らしで す。四方八方に出ていって、イエス様は天国を宣べ伝える。そのような非常に厳しい生活の中、 最後には、呪いの木である十字架にかけられました。

 

 木にかけられる者は呪われた者であ ると律法(神の法律)に書いてあります。それをよく知る全てのユダヤ人は、イエスが十字架の木につるされているのは、すなわち彼は神に打たれている。神に呪われた者だ。誰もがそう思いました。事実イエスは、私たちの全ての呪いを身がわりに受けて、十字架の木につるされたのです。そして、その頭にはとげの集合体、イバラの冠を受けていました。なぜですか? それは私たちの呪いを頭から全てかぶられたという意味なんです。

 

 イバラというのは、もともとこの世 になかったものです。ところが、アダムとエバが罪を犯して、エデンの園の祝福から追い出された後から、地はアダムのゆえに呪われてしまった。その日からイバラとアザミが生じた。それはとげだらけの植物。手を触れたら痛みを受ける、傷を与えるもの。それが全地に生えるようになってしまった。これはまさに呪いの象徴です。イエス様のみ頭には、イバラで編んだぐるぐる巻きの冠が置かれて、ぎゅっとされた。これはイエス様にとって、まさに痛みであり、額が破れ出血する恥辱体験です。王様を皮肉った王冠がイバラでできております。

それはまさに呪いを背負われた王様だという意味なんです。

 

 聖書は語ります。このようにイエス キリストが呪いの木にかかり、呪いのイバラをかぶったその理由は、アブラハムへの祝福がキリストイエスによって 異邦人に及ぶためである。その呪いを受けられたイエス様の身がわりを通じて、私が祝福を受けるためなんです。キリストのように豊かさを受け、呪いが消え去るために、イエスはそのような恐ろしい過酷な痛みを受けられました。 またイエス様は、私たちのために天国の道を開こうと、逆に地獄の黄泉にまで下られたお方です。地獄体験の究極である十字架で、イエスキリストはくぎづけになったのです。

 

 私の知り合いのあるクリスチャンは、天文学にすごく興味を持って、天文観測とかをしていたそうです。そうこうする中で、宇宙の広大さ、緻密さや法則、秩序、1つ1つを知るに至って、余りにも正確で完璧で、不思議で不思議でたまらなくなり、やがて宇宙全体が偶然の産物と教えられてきた一般常識が信じられなくなってきました。まさに逆転発想です。世の教えた法則と違う発想が彼の心に来ました。すなわち、宇宙自体は偶然の産物ではない。神様とまでは言わなくても、何か人知を超えた偉大な存在者、サムシンググレートがいるに違いないと彼は思うようになったそうです。

 

 知性を持った偉大な力の主体を薄々感じながら、17歳のときに、ある日、友達に誘われて教会に出席しました。そのときに、思い切って祈ってみようと思いました。彼の祈りは、天文学に興味を抱いていたから、「この宇宙をつくられた神様、もしあなたが本当に存在されるならば、私が理解することができるように、あなたが存在されることをはっきりと示してください」。

そのようにイエス様の名前で思い切って祈ったそうです。

 

 そう祈って、それから数週間たったある日のことです。今まで体験したことのないような平安と喜びが、スーッと心を支配するのを感じました。それは、今まで心に持っていた煩いが解け去る本当に奇跡としか言いようのないもので、祈りの答えであると、自分自身が体験的にわかったそうです。宇宙をつくられた主体者、創造主であるお方がおられると、知性や理性を超えた体験として彼はわかるようになりました。宇宙創造の神がおられる。それは宗教的なものではない。生きている本当の神だと、彼は祈りの中で確信することができて、そしてクリスチャンになりました。

 

 私たちは天文学の領域から入ってもいいし、医学でもいいし、経済でも心理学でも、どういう領域から入っても構いません。音楽でも構いませんが、全ての究極はイエスキリストにあり、イエスの中に道があり、真理があり、命がある。誰でもイエスキリストを通してでなければ、父なる神のおられる天国には入れないということを、地上で生きているうちに早く悟って、誰もがイエスを信じて、天国に行かなくてはいけません。これは人間にとって一番大切なことです。