逆転発想の勝利の十字架というテーマでみ言葉を分かち合います。

 

ハレルヤ。感謝します。

 

 イエス様は荒野で、空腹で食べるこ とのできない群衆に対して給食を与えられました。それはかく身近な、日常生活上の衣食住の問題であります。彼らは男だけで5000人、女性や子どもを加えれば恐らく数万人はいたと考えられますが、その群衆にとって、これは 食事を十分配給されていない、足りないという、まさに普通の日常茶飯事の食事の問題です。でも、イエス様はそこに介入して、奇跡的にわずか5つのパンと2匹の魚を割いて、ふやして、群衆全てに食べさせるという祝福を与えられました。

 

 イエス様は、確かに偉大な王の王で、天国の神様ですけれども、同時に私たちのごく身近な生活の中での神でもあられ、生活上の小さなこと、私たちが何を着るか、何を食べるか、どのように生活するか、どのような場所か、1つ1つの衣食住全部の事柄に関心を抱いておられ、そういったことに介入して助けてくださる救い主だということです。

 

 ですから、イエス様を信じるということは、将来天国に入るだけではない。生活の中でもプライベートな悩みや苦しみを、祈りを通じて神様に聞いていただいて、解決を得ることのできる、ごく身近な日常生活の中でのイエス様であることをここで示しております。ここでイエス様は、わずかなパンと魚、この問題の解決を通じて、生活の中での神イエスをあらわされました。

 

 さて、具体的にそこから教訓を受けたいと思います。イエス様のなさったみわざは、まず群衆に食事がなかったときに、彼らが出ていって食べる必要はない。もっともそこは荒野で、食堂もないし売店もない。そのような環境で弟子たち12人に、彼らがこの群衆に食 事を配給しなさいと。イエス様ご自身はしようとしていることを知っておられたんですけれど、このようにテストされました。

 

 今も、イエス様は私たちをテストする神様です。なぜならば、12人いたんですけれども、そのうちの10人は、ある意味、無関心です。何も行動を起こしません。しかし、あとの2人は違います。1人の者、ピリポは、どこからパンを買ってきてこの人々に食べさせ ようか。これは到底無理なことだ。めいめいが少しずつ取るにしても、200デナリのパンでは足りません。頭のいい男です。すぐにこれは不可能と計算を出しました。200デナリ、大体200万円ぐらいでしょうか。大金で、そんなに多くのパンを手に入れるのは到底不可能だと思われます。

 

 一方、同じ弟子の中でも、実に12分の1の確率で、1人だけは違う行動をしました。アンデレです。彼は、何とかイエス様のもとで解決を得ようとベストを尽くしたのです。神様の前で用いられる人、奇跡を起こす人はベストを尽くす人です。12人の中でたった1 人、アンデレだけは全力を尽くして何とかこの問題を解決しようとした。人間的に見たら一見、愚かにも見えるけれども、群衆の中に出ていって、1人1人に「食べ物はありませんか、ありませんか」と、実に大人だけじゃない、小さな子どもにまで声をかけるほど一生懸命ベストを尽くしたアンデレです。

 

 その結果、1人の少年が持参したお 弁当の5つのパンと2匹の魚を見つけました。しかしそのお弁当をいただくことは、一見みみっちいことのように思えます。子どもからお弁当を取り上げるなんて。しかしアンデレには信仰があったようです。わずかだけど、これをイエス様のもとに持っていけば、きっとこれが種となって何らかの奇跡が起きる。アンデレは少年にお願いして、そのお弁当をいただきます。

 

 少年も立派です。子どもですよ。「嫌だ。僕のお弁当だからあげない」と言って、逃げることもできたはずです。でも、嫌だと逃げないで、この子は 1食の断食を神にささげたのです。食べることをしないで、それをイエス様にささげることにしたのです。

 

 神様の奇跡というのは、いつもそのような犠牲の土台の中で起きているものなのです。とかく私たちは、5つのパン、2匹の魚がふえてふえて、広がる奇跡だけを見て驚きます。でも、一見、見落としがちな大事な側面があります。自分のお弁当を、断食として神様にささげた少年を忘れてはいけません。また、その少年からお弁当をいただいたアンドレのベストの努力、そこにも目と心をとめるべきです。

 

 神様は、努力する人、ここまでならできるという人間の領域のベストのところまで頑張ってやってみる人、その人を選んで用いて、それ以上の奇跡をなさります。

また、自分のお弁当をささげた少年のように、名もなき普通の人だけれども、一生懸命神様にささげる人、ベストを尽くして頑張る人、そういう人を神は用いて奇跡をなさるのです。このときもそうです。イエス様は少年のお弁当を持って感謝をささげてから、これを割いてふやす奇跡をなさったのです。

 

 普通、パンを割いたら2分の1になるのに、イエス様のみ手の中では不思議です。2倍、4倍、8倍、16、32、どんどんどんどんイエス様のみ手の中で、割けば割くほどパンも魚もふえてふえて、そして最終的に、群衆全てを十分に食べさせることができました。 欲しいだけ分けることができました。その姿はまさに羊飼いが羊に食事を与えるかのようであります。なぜならば、 イエス様が男だけでおよそ5000人を50人ずつ、100人ずつときちっと整列させて、座らせた現場が草むらだったのです。まるで緑の牧場で草をはむ羊の群れのようであります。そこにイエス様は弟子たちを通じてパンと魚を配給されました。

 

 彼らが十分食べ終わったときに、 「余ったパン切れを、1つも無駄に捨てないように集めなさい」と、イエス様は弟子たちに言われました。それで彼らが集めてみると、大麦のパン5つから出てきた余ったパン切れで12のかごがいっぱいになった。この意味は、この給食配給の奇跡に奉仕した12人の弟子たち、彼ら1人に1かごずつのまさに給与であります。おみやげでありま す。彼ら弟子たち1人1人に1かご。自分と家族のために持って帰れるだけの十分な1かごです。

 

 このように、イエス様の仕事をする人たちは、絶対にただ働きにはなりません。今、十分な報いも給与も何も見えなくとも、天国の偉大な報いがある。 これを信じてください。最後に12人が1人1かご、おみやげのようにいただいたように、最後の最後、私たちが天 国に入ったとき、「よくやった。忠実なよいしもべだ」と神は称讃して、天国の偉大な報いを1人1人、神の子らに与えてくださいます。

 

 ここできょう、特に学びたいこと は、まさにイエス様を反映する逆転発想についてです。イエス様は「余ったパン切れを、1つも無駄に捨てないよう に集めなさい」と言われました。ちょっと前の時代であったら、消費は美徳と言われて、どんどん消費することがよいことのように思われた時代もあります。しかし最近は、時代が厳しくなる中、無駄にしない、むしろエコの時代。 いろいろと世相の流れが変わってきていますが、イエス様は時代の最先端を行っておられますね。いにしえの昔から、1つも無駄にしないように余ったパン切れを集めるようにと、無駄にしない生き方を推奨されております。

 

 私たちは、とかく余ったら捨てなさ い、残飯は投げなさいという教育を一般的に受けがちですが、イエス様は逆転発想です。余ったパン切れを、無駄にしないで集めなさいという逆転発想、その中でこのような奇跡が起きている。このイエス様の奇跡と同様に、あなたの生活の中に、ビジネスの中にも生かせる逆転発想があるのです。

 

 例えば介護の世界では、一般的には、スロープにして段差をなくして、お年寄りの 方々が歩くときにつまずかないようないろいろな配慮をする。階段を極力減らすのが一般的な施設のつくりと言われております。ところがあるグループが、これと全くの逆転発想を適用したそうです。すなわち、老人ホームの中に、過保護にならないようにということで、わざと意図的に坂とか階段をつくったそうです。それは老人たちの筋トレ。 彼らが運動不足にならないように、あえて意図的にそのようなものをつくった。

 

 老人たちは施設の中だけで一生暮らすわけではないです。時にはお買い物に行くし、親族のところを訪問したり、外出する。過保護なスロープや平らなところになれ切ってしまったら、外に出ていったときに適応能力のない、実社会にむしろ適応できない、弱い人になってしまう。そこに気づいた彼らは、画期的な施設と考えられますが、食事の時間になると、老人たちがみずからの手で茶碗にご飯を盛って、おかずをとるというセルフのスタイルにあえてしたそうです。一般的老人ホームとは逆のスタイルですね。ちょっと過酷に見えるけれど、あえて老人に厳しい環境をつくった。加えて、一般的な老人ホー ムでは禁止されているような花札やルーレットを許可して、そういうことができる施設にしたそ うです。

 

 そのような逆転発想の中で、不思議なことが起きたそうです。老人たちが、前に比べて生き生きと喜びを感じて明るくなった。さらに、歩行困難だった老人たちが歩けるようになった。しかもそういった人が何人も出てきたそうです。これはまさに逆転発想の働きかけを、老人ホームの介護の世界に導入した成功ケースです。もちろん、老人はいたわって、極力配慮しなければいけま せん。しかし、筋肉トレーニングという意味合いから、あえてこのような環境をつくった老人ホームのデイケアの成功事例であります。

 

 また、こういうのがあります。通常、スーパーというのは、駅前の一等地のなるべく人口過密の場所に大きくつくるべきだ。しかし、駅前は地価が高くて大きくはつくれないので、小型のスーパーでも、駅前という立地条件を重視する。これがスーパーの基本であります。ところが、これを全く正反対にひっくり返した逆転発想で成功したスーパーがあります。このスーパーは鹿児島の過疎地にできたスーパーです。過疎地ですから、土地が安くて人口は少ない。でも、過疎地で地価が安いということを利点として、巨大スーパーにしたのです。

 

 その結果、このスーパーは今現在、1日に2万人が来店して、年商170億円を稼ぎ出すというのです。その大きさは、実に東京ドーム2個分、通常よりかなり大きいですね。その広さのゆえに、このスーパーは24時間営業で、例えば、おしょうゆだけでも200種類以上あるそうです。普通のスーパーなら、200種類も置くだけのスペースがない。でも、田舎の過疎地の広い巨大スーパーだから、200種類のしょうゆが置ける。こんなお店なのでおもしろくてたまりません。少々遠くても、 今はみんな車に乗って移動できる時代、人々が集まるんです。1日2万人。

 

 結局、年商170億を稼ぎ出す大成功したスーパー、それは逆転発想です。駅からはほど遠い、立地条件的には過疎地、鹿児島の田舎、だからこそ巨大にできて、だからこそ普通では扱えないような特殊な商品を全部並べて、ここに行けば何でもそろう、全てのメーカーがある。結果として大成功して、今、アルバイトの人たちにさえボーナスが出せるほどだそうです。

 

 逆転発想っておもしろいですね。イ エス様は「余ったパン切れを、1つも無駄に捨てないように集めなさい」と言われて、集めてみたら、そこからみん なが食べられる奇跡が起きているのです。だから、思い切ってちょっと違う生き方というのも、あるいはおもしろいかもしれません。

 

 ほかにもこういうのがあります。荷物を運ぶときのキャリーバッグ。あれは通常、中に入っている荷物が見えないように、きちっとした布張りになっているものです。自分が何をカバンに入れたか、人が見てもわからない。ところが、あるメーカーが逆転発想のことをやってみました。それはスケルトンのキャリーバッグです。見たことがあると思いますが、透明なビニール製のバッ グをつくってみたんです。中が透け透けで、何が入っているか丸見えです。

 

 元来の発想では、そんなバッグはおかしい。中身が見えてしまう、プライベートがない。ところがこれが受けたんです。私の家にも1つありますが、お風呂に行くときに便利です。石けんは入っているかな、タオルは入っているかな、あけなくても外側から見たら全部わかるんです。今は一般的になっていますが、スケルトンで中が見えること自体が1つのおしゃれのように考えられて大流行しました。これも逆転発想の中から成功したヒット商品でしょう。

 

 ほかにも例を挙げたらいとまがありません。たくさんの逆転発想によって、ビジネスのみならず、いろいろな生活の利便性を追求する知恵があります。 私たちが聖書を学ぶということも、ある意味、逆転発想かもしれません。

世の人々は、キリスト教、そんなの信じないほうがいいよ。教会、余りかかわらないほうがいいよ。そう思いますが、そうじゃないです。私たちはよく知っています。毎週日曜日に集まり、聖書を読み、神を礼拝する生き方は、世の一般の生き方から見たら、あるいは珍しい人たちかもしれません。しかし、実はクリスチャンという逆転発想の生き方こそ、最もすぐれた道で、最後は天国に入れることを知っております。