ヨハ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

イエス様はレギオン悪霊につかれた男一人を癒す為に、大きな財産である二千匹の豚の群れが湖中に崖からダイビングして失われる犠牲を許可。仮に一匹十万円なら二千匹で二億円です。かなりの資産です。一人の魂は天地よりもはるかに尊く価値があります。

 

物の価値は時に支払われた代価の大きさによって分かります。骨董品や高価な宝石類は鑑定人でないと本当の価値が分かりませんが、おおよそ支払われた代価を聞く時はじめて、素人でもその物の真価が分かります。私たちの価値は一体どれ位でしょうか?

 

多くの失敗によって、自分の本当の価値を見失いそうな気分になる時、失敗した自分の姿ではなく十字架のイエス様を仰ぎ見つめなければなりません。その支払われた御子イエス様の罪なき唯一の血潮の代価を引きかえに与えられた命です。神のひとり子の身代わりの死という犠牲の大きさを思うとき悟りが来ます。

数億円の犠牲が出ても、それ以上に高価で尊く愛されている人間。

動物の群れが滅びても、それ以上に価値あるあなたです。

 

ヨナが従順になってニネべ宣教に行き12万以上の人々を罪と地獄から救うリバイバルのため、神様は嵐で貿易商人たちの船内積荷すべてを海に捨てさせ大損害が出てもOKでした!大事なのは失われたニネべの住民の魂の救いだからです。

神様は人を愛してるから!時に、肉を打っても霊に従うのが信仰生活です。

 

マタ16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 

マルコ14:5 ベタニヤ・マリヤが高価なナルドの香油を石膏のつぼを割ってイエス様に直接注いで捧げました。兄弟ラザロ復活の感謝に満ちて神の愛を知った時、これに応えて結婚できなくてもいいと言う勢いで嫁入り道具の香油を全部捧げました。

愛は献身。愛は計算しないものです。

 

計算しなかった愛の事例 ベタニヤ・マリヤは香油の分量を量らずに大胆に石膏のつぼを全部割りました。

ベタニヤ・マリヤはイエス様に感動的な心で計算なく感謝献金300万円と夢の結婚人生を捧げました。

それを電卓計算する愛を知らないユダは銀貨30枚、108万円位もらってイエス様を裏切りました。  

 

盲人バルテマイも大胆に上着を脱ぎ捨てイエスの元に行きました。愛の癒しの奇蹟を信じ、必ず癒されるから、癒されたら自分で働き、物乞い専用の政府公認上着がもういらないと信じて大胆に信仰で過去を脱ぎ捨てたのです。

 

実はこれは万能上着だったのです。着ていると本物障害者の証明となり、政府公認、国家公務員のように安定した身分で堂々と施し受けられたのです。

しかも、この上着は沢山施し受けると包んで風呂敷にもなる。

雨降ると傘にもなる。

夜は布団になる。

朝はこれを着て座るだけで商売道具に。

優れた多機能の万能上着を脱ぎ捨てた大胆な計算ない純粋な信仰です。もし捨てて行き、癒されないで帰り、その間に盗まれたらホームレスのなかのホームレスのリスクがあったはずです。しかし、癒しを信じた証しに脱ぎ捨てた大胆さは愛の癒し主イエス様を本気で信じた勇気の現れです。

 

荒野でイエスに5つの大麦パンと2匹の魚捧げた少年も皆と同じく空腹だったはずです。自分のお弁当なくなったら損なのに、イエス様のために断食の捧げ物をしたのです。現代も、愛で損得計算しない人に奇蹟が起こるのです。

 

ヘブル13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 

ヨハ15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 

アメリカの病院で16歳の少女が、腎盂炎(じんうえん)で、じんぞうを移植しなければならなくなりました。様々なじんぞうを調査した結果、父親のじんぞうがその体に合い、父親は喜んで娘にじんぞうを提供しましたが、不幸にも数年で少女のじんぞうが、また機能不全に陥りました。
再度、じんぞうを取り出し、移植しなければ生きられない状態です。
ところが移植してもらえるじんぞうが見つかりません。
その時、父親が病院で「私の残りのじんぞうを娘に移植してください。」と申し出たのです。
病院の倫理委員会は説明しました。


「倫理的に、道徳的にそれはできません。あなたはじんぞう一つを提供されましたが、残りのじんぞうを提供するということは、死を意味することですから受け入れることはできません。これは倫理綱領に触れます。」
すると、父親が倫理委員会に出席して「皆さん、倫理や道徳より大切なものが愛です。愛は倫理や道徳を規制することができません。倫理と道徳は正しいことです。正しいことです。じんぞうが二つあるのに、一つを切り取り、もう一つまで切り取ることは、正しくないことを知っています。しかし愛は死よりも強いのです。私は死んでも、私の残りのじんぞうを提供して娘に移植したいのです。切に願う私のこの心を受け入れてください!」

倫理委員会は厳粛な雰囲気に包まれ、その後の決定は、父親の最後のじんぞうを切り取り、父親は一生血液をろ過する人工透析に頼って生きることです。父親は最後のじんぞうを娘に移植しました。
手術は成功し、少女は健康になって、学校を卒業。幸せな結婚、素晴らしい家庭を作って、子どもの手をとり、いつも父親の病院を訪ねました。父親は残りの一生を人工透析で生活し、少しも後悔することなく亡くなったのです。