聖霊は復活の力 53歳ですべてを失って無一文からの再出発

 

清水安三やすぞうはアメリカ宣教師の聖書講座参加をきっかけに17歳で洗礼。1917年、清水夫妻が北京に着いた直後、中国北部を大干害が襲った。農民たちは飢えに苦しみ、妻や子を売りに出す始末。清水はすぐさま救済活動に取り組んだ。日華実業協会の委託により災童収容所を開設し、収容された子どもたちの生活の面倒を看た。どの子も痩せ衰え、体は埃にまみれ皮膚病で膿だらけの子も多かった。二人の奮闘により、700名近い子が健康を取り戻し、彼らに識字など初等教育まで施した。

 

安三はさらに酷い「中国随一のスラム街」と言われる朝陽門外の惨状をたびたび耳にした。子どもたちは、数日水だけで過ごすという飢餓寸前で子どもの犯罪は多発し、女の子は身売りされるケースも少なくない。大多数の子は学校とは無縁で、読み書きもできない始末。安三はここに女学校を作ろうと考えたのが工読女学校、後の崇貞学園である。

「工」は手に技を持たせること、「読」は読み、書き、計算の能力を養うことを意味した。最低限の教養を身につけ、手に技を持つようになれば、家族を養うだけでなく、遊郭に身売りされなくて済む。事実、卒業生たちは刺繍の技術を身につけ、売春から抜け出すことができたのである。

 

1937年に日中戦争が勃発し、日中が全面戦争に突入しても、夫妻の活動は止むことを知らなかった。もう一つのスラム街天橋に、医療施設である愛隣館を建てようとするクリスチャン女性を助け、天橋の人々が無料で飲める井戸まで掘った。しかし、戦後、国民党政権から崇貞学園の全施設の接収命令が出され、退去せざるをえなくなってしまった。

 

日本に帰国後、53歳ですべてを失って無一文からの再出発。敗戦後の混乱した日本の将来を憂いて畑の真ん中で「神様、日本の将来を担う若者達に教育する学校を与えてください。」と、ひたすらに祈った。その後、わずか2ヶ月足らずの内に東京町田市に武器弾薬工場があり、そこで働く工員たちの荒廃した寄宿舎を安く借り受け、桜美林高等女学校(桜美林学園)の開校式にこぎ着けた。ここが幼稚園、中学校、大学、大学院まで発足させ、大学・大学院では、中国の言葉、文化、思想を教え、中国の学生も迎え入れ「日中の架け橋」となる人材を育てるミッションスクールを願った。牧師でもある清水氏はこう語る。

「夢を見よ。夢は必ずなるものぞ。」

Ⅰペテ3:15 心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。

 

ヨハ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

 

ヨハ15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。15:27 あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。