聖霊は献身的な犠牲愛を実行する力

 

ダミアン神父は1840年、ベルギーで生まれ19歳で神職に就き、24歳で宣教師としてハワイへ。ホノルル・ダウンタウンで9年間ハワイ島で布教。その後1873年に自ら志望して、モロカイ島カラウパパに赴任しています。

そこは、人々が寄りつかないハンセン病患者の居住区で、当時は容貌が侵されて死んでいく伝染病として人々の恐怖の対象でした。

カラウパパ居住区にはその頃ハンセン氏病の者たち700人が強制収用されていましたが、病人を診る医者も看護婦もおらず、船による他島からの食べ物の支給も最低限。粗末な掘立小屋があるだけで、患者達は絶望の中、ただ死を待つ状態。人がなくなっても葬儀もなく、死体は穴に投げ込まれるだけでした。

 

宣教師グループの一員として、一度カラウパパ居住区を訪れたダミアン神父はそんな状況を見かね、自ら常住の宣教師に志願。悲惨な現状を見て、心を痛め、自分をこの地に捧げる決心をしました。そして町の若者たちを用いて、水道管を引き、家を300軒建て、人間らしい生活ができるようにしてあげました。

 

また、重病人の家も訪問し、慰めと励まし、患者の傷の手当をし、子供達の学校を作り、教会を建て、献身的に働きました。ダミアンは聖歌隊を結成しましたが、病気によって衰えた患者達の声帯では上手く歌えず、オルガン奏者に指はなく、木片を指先に付けて演奏しました。島の居住者90パーセントは農業をはじめ、島の孤児のために孤児院を作り、患者と共に毎日夕食をとり、話し、歌い、新たな患者を乗せた船がモロカイ島に到着する際には必ず出向いて迎えました。


ダミアンは患者たちともっと寄り添うために、自らも病気にならなければ本当の意味で彼らの苦悩を知って寄り添うことはできないのではないか、と考えてあえて感染することを望んだとも言われています。1885年。

居住区に移住して12年後、ダミアンは自身が感染しました。

 

ハンセン病の初期段階は神経障害と言われますが、ある日、ダミアンは熱いお茶を足にこぼしたのに痛みを感じない。戸惑ったダミアンは試しに自分でかけたがやはり感じない。手や顔に病気の兆候が現れた時、初めて患者たちに向かって「私たち患者は」と言うことができたと喜んで「これで患者たちの痛み、苦しみにもっと近づくことができる」と言ったそうです。

ハンセン病となってもダミアンは率先して活動を続け、1889年、49歳で尊い人生を閉じます。

病床にある時、故郷のベルギーに戻って治療を受ける案も提案されましたが、ダミアンは最後までほかの患者達とともにあることを希望したそうです。