キリストの十字架の愛とは?

 

アメリカのある病院で16歳になった少女が、腎盂炎(じんうえん)で、腎臓を移植しなければならなくなりました様々な腎臓を調査した結果、父親の腎臓がその体に合いました。それで父親は喜んでその16歳になった娘に腎臓を提供しました。ところが不幸にも、数年過ぎると、その少女の腎臓がまた機能不全に陥りました。それでまた腎臓を取り出し、移植しなければならなくなったのですが移植してもらえる腎臓を探すことができませんでした。
その時、父親が病院で「私の残りの腎臓を娘に移植してください。」と申し出たのです。病院の倫理委員会では以下のように説明しました。「倫理的に、道徳的にそれはできません。あなたは腎臓一つを提供されましたが、残りの腎臓を提供するということは、死を意味することですから受け入れることはできません。これは倫理綱領に触れます。」と。


すると、その父親が倫理委員会に出席して「皆さん、倫理や道徳より大切なものが愛です。愛は倫理や道徳を規制することができません。倫理と道徳は正しいことです。正しいことです。腎臓が二つあるのに、一つを切り取り、もう一つまで切り取ろうとすることは、もちろん正しくないということを知っています。しかし愛は死よりも強いのです。私は死んでも、私の残りの腎臓を提供して娘に移植したいのです。切に願う私のこの心を受け入れてください!」


その倫理委員会は厳粛な雰囲気に包まれました。その後、決定したことは、父親の最後の腎臓を切り取り、父親は一生血液をろ過する透析に頼って生きるようにしたということです。

それで父親は最後の腎臓を娘に移植しました。一方、その少女は健康になって、学校を卒業しました。そして、幸せな結婚をして、素晴らしい家庭を作って、子どもの手をとり、いつも父親の病院を訪ねたのです。父親は残りの一生を透析によって生活し、少しも後悔することなく亡くなったのです。


私たちの父なる神様は腎臓だけでなく、ご自身の大切なひとり子を私たちにお与えになったのです!
御子を十字架につけてくださり、私たちの罪の呪い一切を負わせて下さったのです!


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)